アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
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悲愴はコンサート向きではないのでしょうか

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Jan. 28, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

モーツァルト: クラリネット協奏曲
チャイコフスキー: 交響曲第六番「悲愴」

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
リカルド・モラレス: クラリネット

フィラデルフィア管の"Late Great Works Festival"最後のプログラム。今回はモーツァルトとチャイコフスキーの晩年の曲です。

今日の演奏会ではこのオーケストラの新しい首席奏者でもあるモラレスのクラリネットが印象に残りました。
去年このオケを聴きはじめたころから透明で美しい音色のクラリネットだなとは感じてはいたのですが、同時にオケで吹くクラリネットとしてはあまりに繊細すぎやしないかとも思っていました。せっかくの音色も、フィラデルフィア管のギラッとした弦と混ざると存在感が薄くなってしまうのです。

しかしこのモーツァルトの協奏曲を聴いてからは、そんなネガティブなイメージもぶっ飛んでしまいました。今ではどんな曲中でもモラレスのクラリネットの音を無意識に探すようになる始末。これからは皆さんもフィラデルフィア管を聴くときはモラレスの音に要注目デス。

楽器というのは、擦るとか、叩くとか、振動させるとか、普通に考えたら不愉快なものにしかなりえない「音を出すという行為」を、鍛練に鍛練を重ねることによって、美しいものへと昇華させていくわけです。(だから僕たちシロウトの発する楽器の音はすべからく不愉快なわけですが。)乱暴にいってしまえば、そういった擦るとかふるわすとかいった行為を感じさせない音こそが、美しい音な訳です。

(注:「乱暴にいってしまえば」と書いたのは、そういった擦るとか、叩くとかいった行為を前面に押し出すことによって、美しい演奏をする人もなかには存在するからなのですが。)

モラレスの音はまさにそれ。音を発するという行為(クラリネットの場合はリードをふるわせるという行為)をまったく意識させずに、音だけがそこにあるといった感じでしょうか。そこには確かに見えるのに決してつかむことができない幻影のような、そんな音色でした。
いやー、いいもん聴いた。

悲愴も大変いい演奏でした。どうもエッシェンバッハはシリアスな曲をシリアスに指揮すればするほど、いい音楽になるようです。こちら側もそれをシリアスに聴く感じがいいと思います。(ネタ演奏としてではなしに。)

フィラデルフィア管はチャイコフスキーの大音量の個所ですら、金管はそれほどでしゃばらずに弦楽器をたてます。弦が最大の魅力であるフィラデルフィア管ならではといえるでしょう。金管が爆音でドバ~の「フェドセーエフ/モスクワ放響」的(偏見)なチャイコフスキーが聴きたい人には物足りないかもしれません。

しかしねえ、この街の観客というのは本当に酷いよ。この演奏会でも悲愴の三楽章が終わったあと、会場に響きわたるほどの拍手喝さいがありました。エッシェンバッハはそんな喝采のなか、四楽章を始めちゃうし。ぜんぜん聴こえなかったよ。ストコフスキー・シフトから弦の並びをかえた意味が、この四楽章冒頭でわかるかなーと楽しみにしてたのに。
ビックリしたのですが、まあこういう流儀が海外ではあるのかなーと思っていたら、隣に座っていた老人二人組みが「え、まだ終わりじゃなかったの?」とかひそひそ話しているし。なんだよ、みんなリアルに曲知らなかったのかよ。四楽章の終わりでも、まだ曲が終わってないのに拍手始めるし。(まあ、これはよくある話ですが。)

毎回こんなのばっかりです。この街の聴衆については書きたいことがいっぱいあるのですが、また別の機会に。

それにしても悲愴はコンサート向きではないのかなあと考え込んでしまいました。
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by ring_taro | 2005-02-26 15:56 | クラシックの演奏会