カーネギー・ホールのゲルギエフ
2005年 04月 08日
キーロフ管弦楽団(マリンスキー劇場)演奏会 (Apr. 5, 05)
カーネギー・ホール、アイザック・スターン・オーディトリアム
ムソルグスキー: 「ホヴァンシチナ」前奏曲(ショスタコーヴィチ編)
プロコフィエフ: 交響曲第二番
シベリウス: ヴァイオリン協奏曲
ボロディン: 交響曲第二番
ワレリー・ゲルギエフ: 指揮
レオニダス・カヴァコス: ヴァイオリン
プロコフィエフの交響曲が進むにつれ、これはすごい演奏だなと驚きを隠せませんでした。あまりに「音楽的」なのです。
「そりゃそうだろ音楽なんだから」と突っこまれそうですが、とにかく無駄な音が何一つもない、非のうちどころのない音楽がそこにあったのです。
なのでこの曲の持つとんがった部分、過激な部分、異形さなどが一切どこかへ飛んでいってしまっているのです。何かが飛び出て単独で自己主張することなく、常に「オーケストラ単位」で動いている感じです。
しかしこれはすごいことですよ。だってプロコフィエフの二番ですよ。この曲が持つ「過激さ」とか「いびつさ」が一切取り除かれていたのです。 「音楽的なるもの」のみでつくりあげられた音楽。ゲルギエフ/キーロフ・オケの計り知れないその能力に戦慄すら覚えてしまいました。
ただ、そんなプロコフィエフを聴きながら、取り除かれたその「とんがったもの」を無性に欲する自分がいたことも白状しなければいけません。だってプロコフィエフの二番ですよ、しつこいようですが。物足りないというのとは違うのですが、なにかこう、無性に寂しくなるのです。
もちろん僕が抱いたこの印象には、カーネギー・ホールの音響が多少なりとも影響していたのでしょう。
このホールでオーケストラを聴いたのは今回が初めてなのですが、舞台の上だけで音楽が出来上がっていく印象です。つまり例えばキメル・センターのようにホール全体でサウンドをつくっていくのとはちょっと違うような。音楽が出来上がるのを遠巻きに傍観している感じというのかな。
ただ、このコンビで出ているショスタコーヴィチの交響曲のCDを聴いたときも同じ印象を持ったので、必ずしもホールのせいだけではないと思います。
さて休憩後のシベリウス。
ソリストのカヴァコスは今シーズンのフィラデルフィア管の定演でも聴きました。印象はそのときとだいたい同じで、「きびしさ」よりも「おおらかさ」が特徴のヴァイオリニストです。どんなに切羽詰ったシーンでも、ゆとりは決して忘れないといいますか。あたたかーいヴァイオリンです。まあ、そんなシベリウスはいやぁ!っていう人もいるでしょう。
その一方、オケの強奏のはっちゃけっぷりといったら。。。弾き方吹き方をそのままでシベリウスの交響曲とかをやったら、相当にすんごいものが出来上がっちゃうでしょう。ただ、二楽章冒頭のホルン(とファゴット)は息をのむほど美しかったです。
そして最後はボロディンの二番。
この曲に対するゲルギエフ/キーロフ・オケの愛情というか誇りのようなものを強烈に感じさせる演奏でした。いうなれば、「自分たちが一番この曲をうまく演奏できるんだ」という絶対的な自信というか。遅いテンポでじっくりと音楽を進めていきます。
ただし、そういった愛着や誇りが、この曲について語られるときに良く用いられる「ロシアの土臭さ」へと結びつくわけではありません。くりかえしますが、どこまでも音楽的。
ここまで思いが込められたボロディンというのは聴いたことがありませんでした。特に三楽章。木管からホルン、そしてオーケストラ全体で盛り上がっていくところは、胸が熱くならずにいられませんでした。
ああ、この曲をかつてやっていた頃、オケのメンバーと「イモくさーい」なんて言いあっていた自分をつかまえて、しばきあげてやりたいです。ああ、自分が情けない。
最後にゲルギエフに関する自分なりの小括。
「音楽的なるもの」への強烈な意志。どんなにとんがった曲でも、とっちらかった曲でも、ひとつの「音楽」へとつくりあげていく手腕こそが、ゲルギエフ最大の魅力とみた。
カーネギー・ホール、アイザック・スターン・オーディトリアム
ムソルグスキー: 「ホヴァンシチナ」前奏曲(ショスタコーヴィチ編)
プロコフィエフ: 交響曲第二番
シベリウス: ヴァイオリン協奏曲
ボロディン: 交響曲第二番
ワレリー・ゲルギエフ: 指揮
レオニダス・カヴァコス: ヴァイオリン
プロコフィエフの交響曲が進むにつれ、これはすごい演奏だなと驚きを隠せませんでした。あまりに「音楽的」なのです。
「そりゃそうだろ音楽なんだから」と突っこまれそうですが、とにかく無駄な音が何一つもない、非のうちどころのない音楽がそこにあったのです。
なのでこの曲の持つとんがった部分、過激な部分、異形さなどが一切どこかへ飛んでいってしまっているのです。何かが飛び出て単独で自己主張することなく、常に「オーケストラ単位」で動いている感じです。
しかしこれはすごいことですよ。だってプロコフィエフの二番ですよ。この曲が持つ「過激さ」とか「いびつさ」が一切取り除かれていたのです。 「音楽的なるもの」のみでつくりあげられた音楽。ゲルギエフ/キーロフ・オケの計り知れないその能力に戦慄すら覚えてしまいました。
ただ、そんなプロコフィエフを聴きながら、取り除かれたその「とんがったもの」を無性に欲する自分がいたことも白状しなければいけません。だってプロコフィエフの二番ですよ、しつこいようですが。物足りないというのとは違うのですが、なにかこう、無性に寂しくなるのです。
もちろん僕が抱いたこの印象には、カーネギー・ホールの音響が多少なりとも影響していたのでしょう。
このホールでオーケストラを聴いたのは今回が初めてなのですが、舞台の上だけで音楽が出来上がっていく印象です。つまり例えばキメル・センターのようにホール全体でサウンドをつくっていくのとはちょっと違うような。音楽が出来上がるのを遠巻きに傍観している感じというのかな。
ただ、このコンビで出ているショスタコーヴィチの交響曲のCDを聴いたときも同じ印象を持ったので、必ずしもホールのせいだけではないと思います。
さて休憩後のシベリウス。
ソリストのカヴァコスは今シーズンのフィラデルフィア管の定演でも聴きました。印象はそのときとだいたい同じで、「きびしさ」よりも「おおらかさ」が特徴のヴァイオリニストです。どんなに切羽詰ったシーンでも、ゆとりは決して忘れないといいますか。あたたかーいヴァイオリンです。まあ、そんなシベリウスはいやぁ!っていう人もいるでしょう。
その一方、オケの強奏のはっちゃけっぷりといったら。。。弾き方吹き方をそのままでシベリウスの交響曲とかをやったら、相当にすんごいものが出来上がっちゃうでしょう。ただ、二楽章冒頭のホルン(とファゴット)は息をのむほど美しかったです。
そして最後はボロディンの二番。
この曲に対するゲルギエフ/キーロフ・オケの愛情というか誇りのようなものを強烈に感じさせる演奏でした。いうなれば、「自分たちが一番この曲をうまく演奏できるんだ」という絶対的な自信というか。遅いテンポでじっくりと音楽を進めていきます。
ただし、そういった愛着や誇りが、この曲について語られるときに良く用いられる「ロシアの土臭さ」へと結びつくわけではありません。くりかえしますが、どこまでも音楽的。
ここまで思いが込められたボロディンというのは聴いたことがありませんでした。特に三楽章。木管からホルン、そしてオーケストラ全体で盛り上がっていくところは、胸が熱くならずにいられませんでした。
ああ、この曲をかつてやっていた頃、オケのメンバーと「イモくさーい」なんて言いあっていた自分をつかまえて、しばきあげてやりたいです。ああ、自分が情けない。
最後にゲルギエフに関する自分なりの小括。
「音楽的なるもの」への強烈な意志。どんなにとんがった曲でも、とっちらかった曲でも、ひとつの「音楽」へとつくりあげていく手腕こそが、ゲルギエフ最大の魅力とみた。
by ring_taro
| 2005-04-08 22:28
| クラシックの演奏会