アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
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コントロールできていないゆえの魅力

以前日本に一時帰国して実家においてあった本やレコードを整理した際に、吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫、1983年)が出てきて、ついつい読みふけってしまいました。10代の頃の自分はこういった本を食い入るように読んでいたのですね。かわいいような、かわいくないような。かわいくはないか。

この本に載っていたエッシェンバッハについてのエッセイがとても面白かったです。何十年も前の、しかもピアニストとしての彼の演奏会評なのですが、今の指揮者エッシェンバッハについての手がかりがそこにあるような気がするのです。

吉田氏はエッシェンバッハのショパンをルービンシュタインのそれと比べます。まず吉田氏はルービンシュタインのショパンを、それ以前のサロン的なスタイルや「孤独な告白」的なイメージをきれいさっぱりと洗い落とした、爽やかで瑞々しい時にはスポーツ感覚に満ちた詩に還元した演奏と位置づけています。そしてエッシェンバッハのショパンについてこう書きます。

エッシェンバッハは、そういうショパンに、もう一度、《魂》という厄介なものを戻した、と私は思うのである。ただ問題は、その《魂》が、ショパンのものか、それともエッシェンバッハのものかということだ。(pp. 437-38)

エッシェンバッハの音楽に違和感をもつ人がいるとしたら、ここの部分なのではないでしょうか。魂そのものの存在をうっとうしく感じたり、あるいはその魂なるものがあまりに本質からはなれているように感じたり。
吉田氏の結論は、その魂はショパンのものでもありエッシェンバッハのものでもあるというものです。個人的には、彼の指揮した音楽を聴くと、それが重なりあうときも、ズレちゃうときもある気がします。重なりあったときにはすばらしい演奏になるのですが。

もう一ヶ所、現在のエッシェンバッハの音楽を知る手がかりになりそうな部分を引用させていただきます。

私の見たところ、このピアニストは自分のショパンには異論のある人の多いのは当然と覚悟したうえで、こうひいているにちがいないのである。[…] その結果は、必ずしも彼が考えている通りではなく、彼がショパンに近いと思ったことが案外遠く、逆に彼が思いきり自分流にやったつもりのことがかえってショパンの本旨に沿っているといった逆説的なあり方にもなっているように推察したりもするのである。(p. 438)

エッシェンバッハがとても感動的な演奏をしたときでも、それが必ずしも彼が完全に音楽をコントロールできた故のものではないと感じることがあります。そういったことをうまく書いているなあ、さすがに大家は違うなあととても感じ入ってしまいました。

エッシェンバッハの音楽を聴くときには、この「コントロールできていないゆえの魅力」も楽しむべし、ですね。
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by ring_taro | 2005-05-20 23:02 | 音楽全般