アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
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カテゴリ:クラシックの演奏会( 39 )

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(Feb. 09, 08)b0044005_1292541.jpg
ルドルフィヌム、ドヴォルザーク・ホール

ブラームス:交響曲第四番
ドヴォルザーク:交響曲第九番「新世界より」

小林研一郎:指揮

今回のヨーロッパ滞在中、オーケストラのコンサートはチェコ・フィルとウィーン・フィルを聴いたのですが、ローカリズムの象徴のような二つのオケを続けざまに聴くことが出来たのはいい経験でした。

それにしてもチェコ・フィルのチケットは安いです。今回一番いい席で聴いたのですが、600コルナ、日本円で4000円程度でした。

しかし、まるで日フィルの名曲コンサートのようなプログラミングですねー。チラシまで容易に想像がついちゃいます。
プラハに到着した翌日の演奏会だったので、集中力が持つのかとても不安だったのですが、ものすごい面白いコンサートでした。特にブラームスにはとても感銘を受けました。

一楽章の冒頭から、今まで聴いたことのない弦の響き。その分厚いのに重苦しくない渋ーい音色に心奪われました。小林先生の演奏会は久しぶりでしたが、相変わらずよく考え抜かれ、そして新鮮な指揮ぶりでした。一楽章の最後、止まってしまうのではないかと心配になるほどテンポを落とし、すごい迫力で楽章を締めくくります。

続く楽章も充実した弦の響きを主体に音楽が進むのですが、そのなかでクラリネットの音がとても特徴的でした。何でしょう、あの音色は。他のオケでは一切聴いたことのない音色なのですが、本当にあれはクラリネットでしょうか?フルートとソプラノサックスを合わせたような音色です。終楽章も一楽章と同様にとても遅いテンポで堂々と締めくくります。

「新世界」も素晴らしいものでしたが、こちらはどうも指揮者とオーケストラでやりたいことにズレがあるような感じで、多少不安定な印象は否めない演奏でした。急にアッチェレランドがかかり始めたかと思いきやガクンとテンポが戻るといった場面がいくつか見受けられました。

この曲に限り、トランペットの往年の首席奏者の方が特別にファーストに復帰していたそうですが、まあその音のでかいことでかいこと。全てB管で吹ききったようですが、その存在感はすさまじいものがありました。ちなみに現在のホルンの首席の方は20代のとても若い方です。チェコからはホルンの名手が無尽蔵に出てきますね。

新世界の終楽章は、ブラームスとは一転して、急激なアッチェレランドで終わりました。曲によって指揮ぶりを効果的に変えていく手腕はさすがです。

巷では「炎のコバケン」と呼ばれ、感情に流されるままの指揮をすると思われがちですが、実はとても考え抜かれ統制された音楽をつくりあげる指揮者だと思います。今回の演奏会でそのことを再認識しました。

実は一度だけ小林先生の指揮で演奏をしたことがあります。そのときリハーサルで色々と教えていただいたのですが、一番印象に残ったお言葉に以下のようなものがあります。

「クレッシェンドって、なんだと思いますか?
 クレッシェンドとは、『我慢』なのです。」

クレッシェンドの記号を見るなり途端に盛り上がってしまうアマチュア・オーケストラ(確か曲はエグモント序曲だったと思います)を諌めてのお言葉でした。大きな音で思うまま弾きたい吹きたいという欲求をグッと抑えて終着点まで統制のとれたクレッシェンドを作り上げる、それが大切なんだということを教えてくださいました。今でも演奏中にクレッシェンド記号を見ると、そのことを思い出します。
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by ring_taro | 2008-03-09 12:14 | クラシックの演奏会

くたばれユニオン!

そういえばこちらの演奏家評が途中だったことを思い出しました。このタイミングで続きを書くのをちょっとためらいもするのですが。。。


10月7日の演奏会、後半の悲愴については書きましたが、前半のアンドレ・ワッツ独奏のブラームスのピアノ協奏曲第二番についてはまだでしたね。

ワッツのピアノがものすごくよかったです。昨年ベートーヴェンの「皇帝」を聴いた時にはもっと「力づく」な印象だったのですが、この日のブラームスは実に風格あるものでした。力強いピアノを弾く人ですが、一音一音の音をたたせるというよりは、音の塊がグワーっと押し寄せるような感じですよね。(なので昔から彼のベートーヴェンの「月光」の三楽章が大好きです。)

一番よかったのは二楽章でしょうか。エッシェンバッハの凝縮されたオーケストラ・サウンドにワッツが挑みかかってくる感じがたまりません。そしてそれゆえに中間部の解放感が引き立ちます。三楽章も実に美しかったです。このオケの新たなチェロの首席奏者ハイ=イェ・ニのソロも太く暖かい音でとてもよかったです。

そういえばこの曲はどこかで読んだ吉田秀和氏の文章のおかげで理解が深まった覚えがあります。確かアラウ/ジュリーニのレコードを誉めて「四楽章はブラームスの南への、イタリアへのあこがれなのだ」と書かれていたのだと思います。そういれれば、第二主題とかカンツォーネっぽく聴こえてきたりします。(この日のプログラムには「ハンガリー舞曲風」って書かれてましたけど。)そう考えると四楽章の突然の明るさがわかるような気がしませんか?


ところでこのプログラムのオープンリハーサルに行った時にとてもびっくりすることが起こりました。

リハーサルは10時半から1時までで、悲愴→ブラームスの順番でした。で、以前書いたようにエッシェンバッハはドレスリハーサルにも関わらずものすごい綿密なプローベをしていたわけです。当然時間はかかります。

そして悲愴が終わり、ワッツとのブラームス。通しただけでも明らかに1時までには終わらない、どうするんだろうと思っていました。で、四楽章の途中で1時になったわけですけど、舞台袖から人がでてきてリハーサルをブチって止めてしまいました。オーケストラのメンバーは楽器を片付けて引き上げてしまいました。後に残されたのは音抜きで打ち合わせをするワッツとエッシェンバッハとその助手の方。

一緒に聴いていた人たち(まあ、オープンリハーサルに来るのは95パーセントはおじいちゃんおばあちゃんです)はものすごい怒っていました。隣のおばあちゃんなんて"F××k the Union!"なんて叫んだりして。

つまりオーケストラの組合との規定で、リハーサル時間が一分でも超えると追加のギャラが発生するので、オーケストラ側としてはリハーサルを止めざるを得ないということのようです。それにしても、ねえ。。。ワッツは四楽章の後半を一度もあわせないまま本番に挑むということでしょうか?オーケストラの団員は音楽家であると同時に労働者でもあるということなのでしょう。


なんか最近このオーケストラのネガティブキャンペーンをはっているような体になってしまいましたが、それは全くもって僕の本意ではありません。次回からはちゃんと(なるべく)音楽を聴く喜びを書いていこうと思います。

ところでワッツさん、リハーサルでオーケストラパートのみになる度に、手ものとスコアをパラパラめくっては次の自分のソロを確認するということを繰り返してて面白かったな。
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by ring_taro | 2006-10-28 23:39 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Oct. 07, 06)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ブラームス: ピアノ協奏曲第二番
チャイコフスキー: 交響曲第六番「悲愴」

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
アンドレ・ワッツ: ピアノ

今回は書きたいことがたくさんあるので、さしあたって今日は「悲愴」のみ。

土曜日の演奏会の前に、木曜朝のオープンリハーサルを聴いてきました。面白かったですよー。ああ、こうやってエッシェンバッハの音楽はできていくんだと納得することがいくつかありました。

リハーサルで一楽章を通したとき、エッシェンバッハにしては随分と淡白でおとなしい「悲愴」だなと思っていたのですが、そこからエッシェンバッハの表情付けが始まります。

実は結構細かいところまで指示する指揮者さんのようです。
例えば弦と木管が交互に同じ音型を演奏するところで「木管が弦に比べてどこそこの音が少し長い。弦にあわせて」とか、管楽器奏者の一人の音程の悪さを指摘したりとか、気にくわないところがあると例えば1stヴァイオリンに何度もパート弾きをさせるとか。とてもドレスリハーサルとは思えない細かさでした。自分の大学オケ時代を思い出したりしましたよ。

あとはエッシェンバッハ名物のタメ、粘り、加速を仕込んでいく作業です。
例えば一楽章第二主題がヴィオラによって導入される部分、ヴィオラは最初あっさりはいったのですがそこで止めて「もっとじっくり。速すぎる!」とヴィオラのパート弾くをさせたりします。このようにしてどんどん音楽が「濃ゆい」ものになっていくのですね。二楽章に関しては、ヴァイオリンに露骨にポルタメントを要求する部分があったり。

リハーサルで一番驚いたのは三楽章の最後部分。エッシェンバッハはちょっと考えられないような凄まじいアッチェレランドをかけていきます。指揮通りに演奏したら音楽が崩壊するんじゃないかというくらい。ところがオーケストラはどこ吹く風。「お付き合い」程度のアッチェレはしますが、指揮とはどんどんズレていきます。で、三楽章を通しおえてすぐエッシェンバッハ氏は「遅い!」と叫びました。ものすごい緊張感だったなあ。

で、本番なのですが、リハーサルとはうってかわった完成度と気迫。特に金管の咆哮は鳥肌がたつほどでした。さすがプロですね。それにしても一楽章第二主題や二楽章のあの美しさはフィラデルフィア管でないとちょっとだせないものですね。
懸案の三楽章終わりですが、加速はするもののかなりの安全運転になってしまっていました。指揮とオケも完全にかみ合ってましたね。あのリハーサルの狂気の加速は何だったのだろう。。。

二年前にこのブログを書き始めた頃にも少しふれたことですが、エッシェンバッハ/フィラデルフィア管の音楽というものは、実は相当に両者の妥協の産物的な要素が強いのではないでしょうか。リハーサルを聴いてそのことをより強く感じました。少なくともエッシェンバッハの思い描く「悲愴」は、この日鳴らされたそれとはかなりの距離があると思います。

これは完全に僕の思い込みかもしれませんが、リハではオケと指揮者との間に結構な緊張がしばしば走りました。でも確かにエッシェンバッハのアプローチ(テンポ設定、旋律の歌わせ方や音量における表情付け)通りに演奏されたとしたら、相当にグロテスクなものができてしまう可能性もあるんですよね。少なくとも長大な曲を一つのものにまとめあげるという構成力という点では、かなり問題のある人だと思います。

フィラデルフィア管には長い歴史のなかで多く聴衆を魅了した名演・名盤を創り続けたという矜持があるでしょう。おのおののキャリアに裏付けられたプライドがあるのでしょう。そこで両者は折り合いを付けて現在私たちが聴いている音楽が出来上がるのだと思います。今ここで音楽が生まれつつある現場の証人となる興奮もありますし、同時にかなりの危うさのある音楽ですね。
これが例えばかつて氏が音楽監督を務めたヒューストン響のような「素直な」オケだと、よりナマのエッシェンバッハの音楽に近いものが出来上がるのだと思います。

パリ管との演奏会を聴いている人の感想とかもぜひ聴いてみたいなあ。パリでエッシェンバッハがどのような音楽をやっているのか。とても興味があります。

ところで「悲愴」もレコーディングされるようです。三楽章の後に予想通り拍手が起きてしまいましたけど。(四楽章の終わりはみんなすごい我慢してました。)
リハーサルで「バランスをチェックするために三楽章の終わりをちょっとやります。物音を立てないでください。」といって終わり数十小節をやってましたけど、あれはバランスのためじゃないね。拍手が起きちゃった場合にそこを切り貼りするためだね。間違いない。
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by ring_taro | 2006-10-08 23:56 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Oct. 03, 06)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

バッハ: ヴァイオリン協奏曲第二番
アサド: ヴァイオリン協奏曲
ショスタコーヴィチ: 交響曲第五番

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ: ヴァイオリン

前回のラン・ランといい今回のナージャといい、エッシェンバッハは「やんちゃ系」ソリストがお好きなんでしょうか。

二年前にメンデルスゾーンをやった時にも思ったのですが、この人のヴァイオリンはできるだけ前の席で聴いた方がいいです。なんというか、彼女自身が一番心地よく聴こえる音量で弾いている感じなんですよね。僕は幸い前の方の席(あまりに前すぎてやっすい席)に座っていたので楽しめましたが、四階席とかちゃんと聴こえてるのかな。

それにしてもここまでバッハを自由に弾く人ってそうはいないでしょう。旋律は歪み、イントネーションは好き勝手に変え、カデンツはチャルダーシュみたいな感じにし、ところどころにグリッサンドを入れてきます。僕の隣に座っていた紳士なんて、ナージャがそんな「オカズ」を挟むたびに苦々しそうなうめき声をあげていました。

ただなあ。結果的に「ナージャらしさ」がでてるんじゃなくて、「ナージャらしさ」をだそうというのがアプローチの出発点になっている感じが否めないんですよね。面白いことはこのうえないんですけど。なにもバッハでやらなくてもなー、とは思っちゃうんですよね。

一番よかったのは二楽章。曲の真ん中に音楽のピークがしっかりと計画されていて、そこへ向かう求心力、そこから音楽が収束へ向かうはかなさが緊張感をもって演奏されていました。しかしこれはエッシェンバッハの功績だよなあ。

次のヴァイオリン協奏曲を作曲したクラリス・アサドはなんとあのギターデュオ「アサド兄弟」のセルジオさんの娘さんだそうです。1978年生まれって僕より年下かよ。

曲はいかにもブラジルの人の曲らしく熱さと気だるさが同居した雰囲気。それでいて現代音楽的なテイストも感じられるなかなか面白い曲です。それにしてもものすごく難しそうな曲なのに、ナージャのヴァイオリンはバッハよりもはるかに上手く感じられます。まあ、そういうものですか。バッハって難しいですよね。

さて、メインはショスタコーヴィチの五番。この有名曲は「ショスタコーヴィチまにあ」になればなるほど「好きじゃない」と言う人が多くなりますが、僕は大好き。特に一楽章と三楽章の冷たい美しさはちょっと他の曲では味わえないものです。

演奏前に「この曲はレコーディングするので物音を極力立てない努力をしてください」といういかにもアメリカらしいもってまわったアナウンスがありました。
そうかー、これCDになるかー。ちょっとすごいですよ、この演奏。ユニークさという意味では今までに出た三枚のCDとは比較にならないと思います。

とにかく一楽章から内容が濃いです。いくつかのエピソードが積み重なってシークエンスとなっているような曲想が特徴的なこの楽章ですが、すべての場面すべての音に意味を持たせるエッシェンバッハの手腕に感心します。美しく滑る弦にも、軋む木管にも、咆哮する金管にもすべて意味があるのです。この場面場面の正確を明確にするというエッシェンバッハの手法はショスタコーヴィチ(とそしてなによりマーラー!)だからこそ成功するという側面はあるのでしょう。曲によってはまとまりがなくなっちゃいますものね。

ただ、エッシェンバッハのアプローチはどこまでも音楽的なので、(ショスタコーヴィチ解釈に時に見受けられるうっとうしい)楽譜の外にある非音楽的なディスコースに寄りかかった解釈とは一線を介します。やっぱ、ショスタコーヴィチはこうでなきゃ。言語化されえない、そしてそれゆえに個人的にも普遍的にも同時になりうる悲/喜劇こそがショスタコーヴィチの最大の魅力だと思うわけですよ、僕は。(とまあ一生懸命言語化しようとしている自分が滑稽なのですが。)

二楽章はこれまたエッシェンバッハ名物の暗く重いスケルツォ。とにかくテンポが遅い。一歩一歩噛み締めるように進みます。しかしこの遅さ、CDで聴いたらどう思うのかな。でも、ライブで体感するテンポとCDで聴くテンポは全く違うものか。部屋で聴いたら案外普通に感じるのかも。あ、今の僕発言、なんかチェリビダッケみたい。逆チェリビダッケか。

三楽章は何パートにも分割された弦セクションが美しく、演奏によっては幾層に重ねられても失われない透明感がたまらなく素敵なのですが、この日の演奏は透明感よりも「うねり」を感じさせるものでした。例えるならば、一つ一つはか細い空気の流れが綾となりつむじ風になるような。そして有名なクライマックスの場面は実に劇的。

いよいよ四楽章。今、スコアが手元にないので確認できないのですが、遅めに始まりその後テンポがめまぐるしく変わるのは確かスコア通りなんですよね?聴いててクラクラしてしまいます。まあそこが楽譜通りとして、クライマックスの遅さは。。。何なんだろうあれは。どんどん遅くなって、最後には止まっちゃうんじゃないかというくらいでした。全弓で音を刻む弦、両手で叩くティンパニ、力尽きる金管。描かれたのは人類の夜明けか、絶望のもがきか。いや、そのような一切の言語化を拒む昂揚か。いやあ、腰を抜かしました。

ところで今シーズンから昨年度空席だったホルンの首席にジェニファー・モントーン(Jennifer Montone)という人が就いたのですが、この演奏会ではものすごくよかったです。昨年度から何度かのっていて、オープニングナイトでもチャイコフスキーを吹いていたのですが、正直言ってあまり好きではありませんでした。しかしこのショスタコーヴィチは完璧。圧倒的な存在感でした。
この人、就任にあたってちょっとしたセンセーションをおこしたのですが、それはまた別の機会に。
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by ring_taro | 2006-10-06 16:15 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団オープニングナイト (Sep. 21, 06)
キメル・センター、ボライゾン・ホール
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モーツァルト:「フィガロの結婚」序曲
チャイコフスキー: フランチェスカ・ダ・リミニ
ショパン: ピアノ協奏曲第一番

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ラン・ラン: ピアノ

オーマンディ編曲のアメリカ合衆国国歌から始まったオープニングナイト。こういうところでオーマンディ編のものが使われるところがフィラデルフィア管ですね。

ところでこの合衆国国歌、「歌いづらい国歌」として有名です。最初気持ちよく歌っていても途中でどんどん音が高くなって、一番高くなったところでフェルマータ。この日も最後は全員裏声。

オープニングナイトというものはまあ所詮は「お祭り」ですし、演奏のクオリティについて語るのは野暮というものです。そんなにリハーサルをする時間もないでしょう。それは聴いててよーくわかりまフガフガ。。。

それでもエッシェンバッハは音楽的な妥協は一切なさらない姿勢のご様子。特にフランチェスカ・ダ・リミニではオーケストラを振り回す振り回す。特に地獄のつむじ風の部分では音楽がうねりまくります。終わり方が特にものすごかったです。崩壊寸前までアッチェレランドをしたあげく急ブレーキ。
フィラデルフィア管のシーズンが戻ってきたなー、またエッシェンバッハの音楽が聴けるんだーとやたらうれしくなってしまいました。

そしてそのまま休憩なしでショパンのピアノ協奏曲へ。

エッシェンバッハらしい内容の実に濃い序奏部の後、いよいよ「俺たちフィラデルフィアの」ラン・ラン登場。
この人のピアノはもう「やんちゃ」そのもの。やりたい放題、好きに弾き放題。どう弾くかは完全にその場その時の気分で決めてるんじゃねーかと思ってしまうぐらい気まぐれです。しかもべらぼうに上手い。なんていうのかな、指揮者もオーケストラも彼のやんちゃっぷりをわかった上でサポートし、お客さんもそんな様をいとおしく思い、ラン・ラン自身もそんな周りの暖かさをすべて承知の上でその空気に乗っかってやんちゃを演じているかのような、そんな会場全体を丸ごと包み込む「共犯関係」を感じてしまいました。
まあこれはパフォーマンスの一つの理想型なのかもしれません。個人的には「それでいいのかよ」という思いがいくらかあることは否定しませんが。でも彼は1982年生まれの若手中の若手。これからどんどん円熟していくのでしょう。今は彼の若さゆえのやんちゃを楽しむことにしましょう。

一番よかったのは二楽章。彼の気まぐれな感性が「ロマンス」という曲想にあっているのでしょう。綿々と紡がれる旋律は美しさの極み。エッシェンバッハ指揮による伴奏はどちらかというと厳しくストイックなもので、これが音楽を甘ったるいものにさせていませんでした。

アンコールはマエストロとラン・ランの連弾によるシューベルトの「軍隊行進曲」。ここでもラン・ランのやんちゃっぷりは遺憾なく発揮されるのでした。

(写真は演奏会を聴き終わりディナー会場に向かう上流階級の皆様。)

なお、この日の曲目の拙による解説はこちらこちら
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by ring_taro | 2006-10-05 21:33 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (May 12, 13, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

チャイコフスキー: ピアノ協奏曲第一番
チャイコフスキー: 交響曲第五番

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ラン・ラン: ピアノ

フィラデルフィア管弦楽団の今シーズン最後の定期演奏会はオール・チャイコフスキー・プログラム。最後ということで、ついつい二日連続で聴きに行ってしまいました。

この演奏会では弦のシフトが再び"1st Vn, Vc, Va, 2nd Vn"の順番に戻りました。アジア・ツアーはこの配置でいくのでしょう。

ラン・ランはこちらではとても人気のあるピアニストです。そのピアノはまさに自由奔放。今回のチャイコフスキーでも、時折みせるものすごい加速はまるで音の洪水。そしてどこまでも明るい音楽です。

「天真爛漫」と表現するのがいいかもしれません。時々ものすごい勢いでオーケストラにつっかかるんですが、それも「挑戦的」というのではなく、みんなにかまってほしくて敢えて悪戯をする無邪気な子供のよう。エッシェンバッハ指揮のフィラデルフィア管は(時々エッシェンバッハらしい手癖を仕込みますが)さすがに大人の対応で、音楽を自然に落ち着かせますが、そのやりとりがまた楽しい。

休憩後の五番はとても充実した演奏でした。数ヶ月前のこのコンビによる悲愴に比べると、もう少し金管が前面に出ています。

とにかく音楽が一ヶ所にとどまらず、常に動いている感じです。エッシェンバッハ得意の急ブレーキ(プラス時々ものすごいゲネラル・パウゼ)と加速とフレーズの過剰な表情付けでまさにキリモミ状。一楽章の一番最後の部分でエッシェンバッハはものすごい「ため」をしたのですが、一日目の演奏会ではオーケストラが反応しきれなく、破綻寸前になってしまいました。二日目ではさすがにしっかりと対応して、堂々としたクライマックスをかたちづくっていましたが。

二楽章の美しさといったら。。。しかしただ美しいだけでなく、エッシェンバッハのシリアスなアプローチのため、すごく厳しい音楽にもなっています。この楽章冒頭の緊張感はものすごかったです。まるでベートーヴェンの弦楽四重奏曲Op. 132の三楽章モルト・アダージョのよう。そこにホルンがオーボエが加わり、音楽が色づいていく様がとても感動的でした。しかし一楽章冒頭で呈示された「運命の主題(the Fate motto)」がかえってくると、金管のものすごい咆哮でそんな甘美な夢から醒まされます。この運命の主題の後、この楽章の最初にホルンが吹いた旋律をヴァイオリンが弾く個所、オーボエのウッドハムズのオブリガートがそれはもう絶品。ここ必聴。

終楽章はとてもドラマチックなアプローチ。ものすごい苦闘のぶんだけ、コーダが感動的になります。ここですさまじいアッチェレランドがあるのですが、オーケストラも一糸乱れず突進します。

1シーズン通してエッシェンバッハ指揮のフィラデルフィア管を聴いてきたのですが(今数えたら、このコンビの演奏会に12回行ってました)、次第に彼の音楽に惹かれている自分がいました。思うのですが、彼は音楽を無条件で「信じて」いるのではないでしょうか。今回のチャイコフスキーでいえば、運命との戦いから勝利へという「物語」と信じているのです。この21世紀にメタとも脱構築とも無縁な解釈といえばいいでしょうか。

そのエッシェンバッハの真摯な姿勢に胸をうたれるのです。
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by ring_taro | 2005-05-15 20:25 | クラシックの演奏会
シカゴ交響楽団演奏会 (May 7, 05)
シンフォニー・センター、セオドア・トーマス・オーケストラ・ホール

シュニトケ: 合奏協奏曲第六番、第五番
ベートーヴェン: 交響曲第七番

ダニエル・バレンボイム:指揮、ピアノ
ギドン・クレーメル: ヴァイオリン


シカゴ交響楽団演奏会 (May 11, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ワーグナー: 「パルジファル」前奏曲
シェーンベルク: 管弦楽のための五つの小品 (1909年版)
ベートーヴェン: 交響曲第七番

シカゴからフィラデルフィアへ。はからずもシカゴ交響楽団を追っかけてしまいました。

現地でシカゴ交響楽団を聴いたのは実に10年ぶり。そのときはリッカルド・シャイー指揮でド迫力のヤナーチェクのシンフォニエッタと、不思議な響きのブラームスの交響曲第一番を聴きました。あのブラームスはいまだに謎。あんなに明るくて軽いブラームスは聴いたことがありません。

全然知らなかったのですが、その後オーケストラ・ホールって改修工事がなされたのですね。昔からデットな音響で有名だったようですが。
あれ、舞台後方に座席って昔からあったっけ?新しく取り付けたのかな。

シュニトケの二つのコンチェルト・グロッソは、どちらも1990年代になってから作曲されたもの。特に第六番はシンプルな編成(ピアノ、ソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏)と書法の面白い曲です。

バレンボイムのピアノがすばらしい。硬質な音色でズンズン、ザックザックと弾きたおします。ものすごい力強さにもかかわらず、その音の美しいこと!一音一音がクリスタルのようです。イメージとしてはマンフレッド・アイヒャーがプロデュースしたECMのソロ・ピアノみたい。その音があのでっかいシカゴのオーケストラ・ホールを満たしているのです。ここまで圧倒的なピアノを弾く人だったとは。クレーメルの空間を切り裂くような鋭いヴァイオリンも印象的でした。この二人、実に音があっています。

そしてオーケストラのうまいこと。もう、本当にうまい。
驚くべきはその反応の速さ。アクセルを踏んだとたんに最高速度になるスポーツカーのよう。どれだけ強奏してもまだ余裕があるように感じられます。なんの無理も力みも感じさせないのです。そして「ほつれ」や「濁り」とは無縁のサウンド。ホールのせいもあるかもしれませんが、実にクリアな音です。

これはすごい。シカゴの人は日常からこんなオーケストラを聴いているのか。他のオケなんて、ねむたくて聴けなくなっちゃわないかなー。なるだろうなー。
でもそれは幸せなことなのか、不幸なことなのか。

フィラデルフィア公演でのワーグナーとシェーンベルクは、そういったシカゴ響の特徴がよりいっそうでた演目でした。やはりキメル・センターの方がシカゴのオーケストラ・ホールよりまろやかな響きになるのですが、それでもフィラデルフィア管がそれぞれの楽器の音を練りあわせて一つの音をつくっていく感じに比べると、シカゴ響の音の明晰さは際立ちます。ワーグナーの金管のものすごさといったら。。。なんですか、あれ。どうやったらあんなふうに吹けるんですか?

首席ホルンのクレヴェンジャーはやっぱりすごいですよ。うまいだけでなく、どんな局面でも余力を残している様がたまりませんよ。アメリカが誇るもう一人の名手、ニューヨーク・フィルのフィリップ・マイヤーズは「どーだ、オレのホルンすごいだろー」というオーラを強烈に発散させて吹いている感じですが、クレヴェンジャーのホルンはどんなに難しいフレーズでも楽々と涼しい顔で吹いているところがまた違った凄みを感じさせます。

休憩後はベートーヴェン。
しかしまあ、粘るし揺らぐし煽るし、なかなか濃ゆいベートーヴェンですねえ。常にテンポが速くなったり遅くなったり、ザッツはわざとぼかしてみたり。バレンボイムの志向するベートーヴェンはおそらく相当「ねっとり」したものなのでしょうが、オーケストラのサウンドが実にクリアなので、少しもうっとうしくなりません。そう考えると、このコンビはすごくいい組み合わせだったのでしょうね。(バレンボイムが音楽監督なのは来シーズンまでだけど。)

しつこいようですが、オーケストラがうまい。音の増減をまるでステレオのボリュームをまわすようにやってのけます。て言うと、けなしているように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。純粋に感心しているのです。二楽章の長いクレシェンドとデクレッシェンドで大きなヤマをつくっていく様は見事の一言です。


ところでバレンボイムとエッシェンバッハ。指揮者としての二人の音楽って結構似ているようで、実はまったく違うもののように聴こえます。何が違うんだろう?今度ゆっくり考えてみよう。
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by ring_taro | 2005-05-15 05:17 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (May 10, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

マルチヌー: リディツェ追悼
クライン: 弦楽のためのパルティータ (ザウデク編)
ショスタコーヴィチ: ヴァイオリン協奏曲第一番
バルトーク: 管弦楽のための協奏曲

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ヴァディム・レーピン: ヴァイオリン

エッシェンバッハにとって第二次世界大戦というのは、相当に重要なものであるようです。彼がこの戦争をどのように体験したかは、彼のHPをご参照ください。昨年のシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」とブラームスのドイツ・レクイエムをぶっ続けでやった演奏会もすごかったけれど、この日のプログラムもすごかった。

ナチスにより焼き払われたチェコの村リディツェへのマルチヌーが書いた追悼曲、テレジン収容所で25歳で死んだクラインがその収容所の中で書いたパルティータ、ショスタコーヴィチが1947-48年に作曲ししばらく初演されなかった沈鬱なヴァイオリン協奏曲を経て、最後はバルトークがアメリカ亡命後1943年に作曲した管弦楽のためのコンチェルトというプログラム。ああ、重い、重すぎる。

ヴァイオリン協奏曲第一番はショスタコーヴィチの曲のなかでもおそらく最も暗いものの一つです。レーピンのヴァイオリンはやや線が細いのですが、ものすごい推進力でグイグイ音楽を引っ張っていきます。三楽章後半のカデンツァも息をのむほどの出来。エッシェンバッハ指揮のオーケストラも内容の濃いものでした。ここまで完璧なこの曲の演奏にはそうそうお目にかかれないのではないでしょうか。

休憩後はバルトーク。
セルやショルティの引き締まった演奏になれた耳で聴くと、その豊かな響きがまず印象に残ります。テンポも揺れる揺れる。エッシェンバッハのアプローチはとにかくシリアスなもの。この曲の一つの側面である諧謔味はどこかへ行ってしまいました。どこまでも深刻な音楽です。各奏者の名人芸ですこし救われる感じ。

特にクライマックスのショッキングなこと。。。
それまでみんなで楽しくワイワイやっていたら、突然に地面が割れてこの世の深淵が全てのものを飲み込んでしまったような衝撃です。あとに残された者は呆然と立ちすくむしかない。

ところでこの曲の四楽章でショスタコーヴィチの交響曲第七番の一楽章の有名な旋律が引用されているのですが、休憩前のショスタコーヴィチ自身のヴァイオリン協奏曲でもこのフレーズがちょこちょこっと顔を出します。ああ、こんなところでも繋がっているんだ。エッシェンバッハのプログラミングには感心しっぱなしです。


演奏会前にアナウンスがあったのですが、今回の演奏会からCDとしてリリースするためのライブ・レコーディングが始まりました。ものすごいマイクの数です。咳とかあんましないでねとお願いがあったのですが、まあ、皆さんゴホゴホするしモノは落とすし普段どおりでしたね。
バルトークの前にはエッシェンバッハ氏自らマイクを持って、「曲が終わった直後も音楽の一部です」とお願いしたのに、皆さんかまわず曲終わりとかぶせて拍手喝さいしているし。(まあ、こういうことをお願いするということも、ちょっと奇妙な感じはするのですが。)

この録音、使えるのかなあ。


ああ、それにしても重いプログラムだった。
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by ring_taro | 2005-05-14 22:44 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Apr. 29, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ディーリアス: 楽園への道(「村のロミオとジュリエット」より、ビーチャム編)
モウ: イングリッシュ・ホルン協奏曲
リムスキー=コルサコフ: シェエラザード

ロセン・ミラノフ: 指揮
エリザベス・メズーニャ: イングリッシュ・ホルン

ミラノフはフィラデルフィア管の副指揮者です。
この人はいつからこのポストにいたのでしょうか?服装とか指揮振りとかエッシェンバッハによく似てます。

一曲目はディーリアス。
この「村のロミオとジュリエット」というオペラ、この前DVDで初めて観たのですが、予想だにしなかった「楽園」の正体と物語の結末に度肝をぬかれたものでした。「楽園への道」と呼ばれるこの間奏曲は、大変美しい曲です。このオケのイングリッシュ・ホルン奏者メズーニャが大活躍。次の曲では協奏曲のソリストなのに。

イングランド出身の作曲家ニコラス・モウによるイングリッシュ・ホルン協奏曲は今回が世界初演。
演奏前の解説によると、テンポが速めから次第に遅くなっていくこの曲の構成はイングリッシュ・ホルンという楽器の特徴を考えてのものだそうです。なるほど、すぐに思い浮かぶ歴代のイングリッシュ・ホルンの名ソロはゆっくりなものばかりですね。と、ここで真っ先に思い浮かべたソロがショスタコーヴィチの交響曲第八番の一楽章だったあなたは相当のショスタコ中毒です。

で、演奏なのですが、確かに後半のテンポの遅くなってからが一番印象に残ります。

休憩後はシェエラザード。
今回買ったのは安い席だったので、前から二列目、チェロの真ん前に座っていました。そしたら「シェエラザード」の一楽章、チェロが延々ドンブラコッコドンブラコッコとやっているので、聴いていて船酔いになりそうでしたよ。

演奏は実にもって見事。ヴァイオリン、木管、金管のソロは何も言うことはありませんし、合奏部分のギラギラしたオーケストラ・サウンドもたまりません。四楽章クライマックスではまた船酔い状態。

ところでこの曲で最近よく聴いているのはムーティ/フィラデルフィア管のものです。ムーティの音楽の魅力はフレーズの一つ一つが確かな「意思」を持っていること、そしてそのフレーズたちが集まり一つの大きな曲という「意思」にまとまっていくところだと思います。「シェエラザード」のCDは彼のそんな魅力を知るのに格好のものです。
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by ring_taro | 2005-05-12 02:03 | クラシックの演奏会

純粋さと明晰さ

ドーン・アップショウ、リチャード・グード演奏会 (Apr. 26, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ハイドン: ピアノ・ソナタハ長調 Hob. XVI-50
シューマン: リーダークライス Op. 39
ドビュッシー: 華やかな饗宴 第二集
ドビュッシー: 枯葉 (前奏曲第二集より)
ドビュッシー: 喜びの島
ムソルグスキー: 「子供の部屋」より

ドーン・アップショウ: ソプラノ
リチャード・グード: ピアノ

アップショウのソプラノとグードのソロ・ピアノが楽しめるなかなかお得な演奏会。

グードのピアノは実にスリリングですね。ハイドンの一楽章など加速→急ブレーキ→加速→急ブレーキを延々続けていました。なんというか、こう、すごくバネのきいたピアノというか。

アップショウのソプラノはとにかく歌声のクセの無さ、素直さが特徴的です。リーダークライスって曲自体がもうちょっとクセのある曲だったような気がしますが、実に透明度の高い音楽になっていました。

ところでアップショウといえば忘れてはならないのは、ケント・ナガノ/リヨン国立歌劇場管とのカントルーブの「オーヴェルニュの歌」のCD。曲の土臭さはどこかへ吹き飛び、、そこにあるのは澄んだ空気と青い空と緑の丘。あれ、オーベルニュの人々は?見当たりません。てな感じのちょっと異色な美しい演奏です。

閑話休題。
伴奏になるとよくわかるのですが、グードのピアノは実に明るいです。例えばリーダークライスの三曲目「森の語らい」などは、結構シビアな曲だと思うのですが、冒頭から能天気炸裂。カラッと明るいシューマンになっております。

個人的にはこういう明晰なピアノのドビュッシーは大好き。特に「喜びの島」はこうじゃなくっちゃ。グードは恥ずかしながらハイドンやベートーヴェンのイメージしかなかったのですが、ドビュッシーもいいですねー。

最後はムソルグスキーの歌曲集「子供の部屋」より五曲。子供目線の歌なので、アップショウは「お茶目さ」と「迫真の演技」を見事に結合させ、ある意味壮絶な歌いっぷりを見せつけます。無邪気で明るい音楽ですが、そこはムソルグスキー。どこかにイビツさや不穏さが見え隠れするところはさすが。


ところで演奏会後に、アップショウとグードとのレセプションがあったのですが、行ってみたら参加者は8人ほど。もっとちゃんとPRしなさいよって感じです。まあ僕たちは楽しかったからよかったけど。
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by ring_taro | 2005-04-29 13:32 | クラシックの演奏会