アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
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カテゴリ:クラシックの演奏会( 39 )

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Apr. 16, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

リムスキー=コルサコフ: ロシアの復活祭序曲
ストラヴィンスキー: ハ調交響曲
ベートーヴェン: 交響曲第七番

シャルル・デュトワ: 指揮

前回の演奏会よりも「デュトワらしさ」を理解しやすいプログラムだったと思います。

僕が初めて買ったストラヴィンスキーの交響曲のCDはデュトワのものでした。確かスイス・ロマンド管とのものだった気がします。その録音があまりに鮮烈だったので、そのあと聴いたどのCDも物足りなく思ったものでした。

と、今回の演奏はその録音とはずいぶん印象が違う感じ。テンポは相当遅く、音楽がやわらかい。出色だったのは二楽章。ゆったりとしたテンポのなか、弦が木管が美しいメロディを紡いでいきます。

フィラデルフィア管がこの曲を以前に演奏したのは2000年。(その前となると1964年までさかのぼります。)指揮はサヴァリッシュ。この日の演奏以上にまったりとしたストラヴィンスキーだったのではと勝手に想像します。あるいはそのときの演奏が、今回のおおらかなストラヴィンスキーのベースをつくったのかも。


ベートーヴェンも同様、カドのとれた柔らかな音楽でした。

こんなに流麗なべト7は聴いたことがありません。とにかく音楽が流れる流れる。この曲を特徴づけているリズムは後方に押しやられ、滑らかさが前面に出ている感じ。

一楽章の途中、ずーっときざまれているビートが一瞬エアポケットのように無くなる部分があるのですが、ここが面白い。それまではこのビートのおかげでかろうじて保たれていた曲のリズミカルな側面が、この部分で楔を抜かれたようにふっと緩んでしまいました。

この曲もストラヴィンスキーと同様、二楽章が一番よかったです。冒頭、弦が次第に重なっていく部分から最上のバランスと美感で音楽が進んでいきます。一分のすきも無いまさしく完璧な音楽でした。


デュトワがベト7を振ったらこんな感じになるだろーなーと想像した通りの演奏でした。デュトワがそれだけ自分のスタイルを確立した指揮者だからか、それとも僕があまりに先入観で音楽を聴きすぎているのか・・・。


ところでこの日の演奏会はフィラデルフィア管をはじめて聴くという人と一緒に行ったのですが、演奏が終わった直後の第一声が「深みのない音ね」。

「ねーよ、そんなもん」と喉のところまで出かかりましたが、思いとどまり「えー、そうですかー?」とか言ってしまいました。ああ、なんだかちょっと自己嫌悪。
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by ring_taro | 2005-04-22 07:46 | クラシックの演奏会
ニューヨーク・フィルハーモニック演奏会 (Apr. 14, 05)
リンカーン・センター、エーブリー・フィッシャー・ホール

ペトラッシ: 死者の合唱
リスト: ファウスト交響曲

リッカルド・ムーティ: 指揮
トーマス・モーザー: テノール
ニューヨーク・コラール・アーティスツ: 男声合唱

この日は午前中にオープン・リハーサルもあったので、それも見学してきました。すごく行ってよかったです。ムーティのことも、ファウスト交響曲のことも、より詳しく知ることができました。

一曲目のペトラッシ作曲「死者の合唱」が始まる前に、ムーティはマイクを使ってアナウンスをしました。この曲が作られた1941年という時代のイタリアについて、この曲を「今」演奏することの意味について。そして曲が終わっても拍手をしないで欲しいというお願いがありました。

この曲は三台のピアノ、金管、低弦、打楽器、そして男声合唱というすこし変わった編成の曲です。居心地の良さと悪さが共存するような不思議な曲でした。それは「死の安寧と理不尽さ」という歌詞の内容と密接に結びついたものだったのでしょう。ただ重苦しいだけでなく、どこかに諧謔味のある音楽です。

しかしこの曲の終わりに大変ショッキングなことがありました。音楽が静かに終わろうとしたまさにそのとき、ノーテンキな携帯の着信音が!コンサート・ホールに鳴り響く携帯の音は数多く聞いてきましたが、この日のそれほど凶悪なものは聴いたことがありません。

拍手をしないでほしいとお願いしたら、その代わりに着信音。
ああ、惨すぎる・・・。

ムーティは動じる気配も無くスッと舞台から引き上げていきましたが、残された奏者と観客の居心地の悪さ、気まずさといったらそれはもう・・・。ああ、思い出しただけで胃が痛くなる。

さあっ。き、気を取り直して後半のファウスト交響曲だっ。
大曲だぞー。

ところでムーティのリハーサルですが、曲の要所での「キメ」の部分を確認する以外は、ほとんどがフレージングやメロディの歌わせ方に関するものばかりでした。

このムーティの「うた」への執着はすさまじいものがありました。最後のリハーサルということもあって、前プロのペトラッシは流しただけで終わりましたが、リストはこだわりにこだわりぬいたリハーサルでした。

特に第二楽章「グレートヒェン」のリハーサルでは、ムーティ自身が朗々とすばらしい声で歌いながら、内声部にまで執拗にカンタービレを要求していました。
そして本番では20分以上にわたり、オーケストラが歌いっぱなし。ここまで全てのパートが歌いきったオーケストラの演奏というものは聴いたことがありません。一音たりとも歌いそこねてなるものかといわんばかりのオーケストラの入れ込みよう。呼吸をするのも思わず忘れてしまうような美しい音楽でした。
うおー、こんなにすばらしい曲だったのか、ファウスト交響曲って。

三楽章のリハーサルでは一転、ビートの維持に神経を注いでいました。ムーティはオーケストラがビートに乗り切れていないと感じているらしく、何度も止めては注意します。特に楽章の真ん中あたりでフーガっぽい展開になるところの頭のヴィオラと2ndヴァイオリンが気に入らないらしく、延々とパート弾きをさせ続けます。おーい、夜には本番だよなーなんて不安になったものでした。

ムーティの説明したところによると(声を全て聞き取れたわけではないので、ジャスチャーなどで判断するに)、ビートの維持はその先にある音楽の「解放」のためのもののようです。我慢に我慢を重ねて音楽を維持してエネルギーを溜めることによって、クライマックスで一層のカタルシスを得ることができる。そんなことを説明していました。

(すいません、「解放」というのは僕の言葉です。上手く説明できませんが、単純に言ってしまえば、一番盛り上がったところの「ジャーン!!」って感じの部分のことです。)

このことが僕のムーティの音楽に対する理解をより深めてくれたような気がします。
というのは、僕は以前からムーティの音楽で気になることとして、弱音があまりに弱すぎるというものがあったのです。静かな部分で音をあまりに小さくしすぎて、音楽を窒息させている。そんなふうに感じることがしばしばありました。
しかしこの日のリハーサルを聴いてわかりました。その後の音楽の「解放」のためだったんですね。この日の演奏でもそれはもう限界まで音を小さくさせていた部分が多々ありましたが、それが刹那的なものではなく、音楽の流れに則した必然性のあるものだと気がついたら、ムーティの音楽をより楽しむことができました。

合唱とテノールのソリストは三楽章途中から入場。これまでの70分はこのためにあったのだと思わせるような感動的なクライマックスをつくりあげていました。

ムーティの「うた」への執念、音楽に対する真摯な姿勢に心を打たれた演奏会でした。

ああ、また一人、「首ったけ」な指揮者ができてしまった・・・。
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by ring_taro | 2005-04-17 07:14 | クラシックの演奏会
スティーブン・イッサーリス、スティーブン・ハフ演奏会 (Apr. 13, 05)
キメル・センター、ペレルマン・シアター

ヨハン・フンメル: 変奏曲ニ短調
スーク: バラードとセレナーデ
ブラームス: チェロ・ソナタホ短調 Op. 38
マルチヌー: スロヴァキアの主題による変奏曲
ブラームス: チェロ・ソナタヘ長調Op. 99

スティーブン・イッサーリス: チェロ
スティーブン・ハフ: ピアノ

フィラデルフィアでイッサーリスを聴くのは昨年9月のフィラデルフィア室内管弦楽団の演奏会以来二回目です。あの時はショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第一番だったのですが、雄弁で深い音に感動したものでした。(ホルンも実にすばらしかったです。)

この日のブラームスは、あのショスタコーヴィチに比べると、より丁寧で内省的な演奏だったと思います。僕はそういうブラームスの方が断然好き。ホ短調の方のチェロ・ソナタで、なんか感情むき出しの始まり方とかされるとゲンナリしますもん。(だれのCDかはあえて言いませんが。)

ハフのピアノはイッサーリスに比べるとちょっと表現主義的。ただ、二人の息が実に合っているため、それほど違和感がありませんでした。
ところでよく考えたらこの人、マゼール/ニューヨーク・フィルがフィラデルフィアに来たときにやったラフマニノフのソリストでした。あまり記憶に無いんだけど・・・。

アンコールはそのハフが作曲した、イッサーリスの娘さん(いや、息子さんだっけかな?)にささげた小品。きれいな曲でした。
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by ring_taro | 2005-04-17 03:29 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Apr. 7, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

フォーレ: 「ペレアスとメリザンド」組曲
マクミラン: 交響曲第三番「サイレンス」
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第一番

シャルル・デュトワ: 指揮
マルタ・アルゲリッチ: ピアノ

日本でもおなじみのデュトワがフィラデルフィア管の定期に登場。
ちなみにデュトワはフィラデルフィアでもおなじみの指揮者で、フィラデルフィア管のサラトガにおける夏季シーズンの芸術監督をつとめているそうです。このコンビでラフマニノフの交響曲などをレコーディングしていますよね。

プログラムによると、フィラデルフィア管によるフォーレの「ペレアス~」組曲全曲の録音は63年のシャルル・ミュンシュ指揮のものだけだそうです。
この録音、もし聴いたことがない方がいらっしゃったら、ぜひ聴いてみてください。ああ、あるほど、この組み合わせだとこういう音楽になるのねと納得。ミュンシュとフィラデルフィア管の特徴がおかしな方向にがっつり噛み合って、相当にユニークなものが出来上がっています。一曲目の冒頭から熱風がムワーっと吹いてくる感じ。最初から最後までオケはユルユル。

ああ、思い出しただけでも汗がふきだしてくる。

気を取り直してこの日の演奏ですが、弦ももちろん美しかったのですが、管楽器のソロがとにかくすばらしい!特にオーボエのリチャード・ウッドハムズとホルンのノラン・ミラー。

二曲目「糸紡ぎの歌」のウッドハムズのオーボエの見事さといったらそれはもう…。あいかわらず、ゆとりと軽やかさと詩情と、あとちょっとだけ「ほつれ」が混ざりあった、すばらしいソロでした。

ノラン・ミラーのホルンの音は決して何かを声高に主張するものではありません。しかしその控えめさのなかに、なんともいえない味わいがあります。一聴すると地味ですが、一度その味を知ると、曲の最初から最後までミラーのホルンを追いかけることになったりします。(また追いかけづらいんだ、これが。)
一曲目「前奏曲」の後半、ホルンが単音をモールツ信号のように吹く個所があります。なんということはない所ですが、そこがもう、すばらしかったんですよ。思わずため息が出るくらい。
彼の現在の肩書きはRetired Principalですが、勝手ながら一年でも長くこのオケで吹き続けて欲しいと思います。

マクミランの交響曲は、2003年にデュトワ/N響が世界初演をしたもので、今回が米国での初演。遠藤周作の小説『沈黙』にインスパイアされて書かれたものだそうで、そのためかオリエンタルな感じのフレーズが多用されています。
曲の冒頭と終わりの部分のイングリッシュ・ホルンのソロが見事でした。この曲は始めて聴いたのですが、マクミランらしく金管の強奏あり、ミステリアスなムードありで、とても面白い音楽でした。こう、全体的にカラッとしているところがいいですね。
ただ、お客さんはちょっとお疲れ。

休憩後はアルゲリッチとのベートーヴェン。

この人のパッションの爆発の根源にあるものとはなんでしょうか?あまりアルゲリッチの音楽に詳しくない自分的には、「唐突」なところも結構あったりして、かなりスリリング。オケも苦笑混じりに必死についていきます。

ただ、聴いているうちに次第にわかってくるものですね。「爆発」の前にはその兆しとしてのクッションなり助走なり雌伏なりがあることを理解したら、相当に面白く聴けました。

ただ、デュトワはさすがにアルゲリッチのことをよくわかってらっしゃる。アルゲリッチの自在な音楽に対して、しっかりと先回りしてオーケストラをコントロール。この「先回り」感覚がデュトワの指揮の特徴な気がします。この人は本当に上手いなー。

一番面白かったのは、三楽章冒頭。この頭のフレーズは、一つ目の音は「ひっかけ」で、普通は二番目の音にアクセントがあるのですが、アルゲリッチは明らかに最初の音にアクセントをつけて弾きだしました。これはこれで面白いのですが、旋律が進んでいくにつれて辻褄があわなくなってきます。

この冒頭の部分、ただでさえちょっとこんがらがっているので、この日の演奏ではもうおよそ「混沌」。それでその後、オケは普通のイントネーションで弾いちゃうんだから、もお。ただ、この直後、音楽が一気にクリアなものになるという思わぬ効果があったので、結果オーライということで。
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by ring_taro | 2005-04-09 17:32 | クラシックの演奏会
キーロフ管弦楽団(マリンスキー劇場)演奏会 (Apr. 5, 05)
カーネギー・ホール、アイザック・スターン・オーディトリアム

ムソルグスキー: 「ホヴァンシチナ」前奏曲(ショスタコーヴィチ編)
プロコフィエフ: 交響曲第二番
シベリウス: ヴァイオリン協奏曲
ボロディン: 交響曲第二番

ワレリー・ゲルギエフ: 指揮
レオニダス・カヴァコス: ヴァイオリン

プロコフィエフの交響曲が進むにつれ、これはすごい演奏だなと驚きを隠せませんでした。あまりに「音楽的」なのです。

「そりゃそうだろ音楽なんだから」と突っこまれそうですが、とにかく無駄な音が何一つもない、非のうちどころのない音楽がそこにあったのです。
なのでこの曲の持つとんがった部分、過激な部分、異形さなどが一切どこかへ飛んでいってしまっているのです。何かが飛び出て単独で自己主張することなく、常に「オーケストラ単位」で動いている感じです。

しかしこれはすごいことですよ。だってプロコフィエフの二番ですよ。この曲が持つ「過激さ」とか「いびつさ」が一切取り除かれていたのです。 「音楽的なるもの」のみでつくりあげられた音楽。ゲルギエフ/キーロフ・オケの計り知れないその能力に戦慄すら覚えてしまいました。

ただ、そんなプロコフィエフを聴きながら、取り除かれたその「とんがったもの」を無性に欲する自分がいたことも白状しなければいけません。だってプロコフィエフの二番ですよ、しつこいようですが。物足りないというのとは違うのですが、なにかこう、無性に寂しくなるのです。

もちろん僕が抱いたこの印象には、カーネギー・ホールの音響が多少なりとも影響していたのでしょう。
このホールでオーケストラを聴いたのは今回が初めてなのですが、舞台の上だけで音楽が出来上がっていく印象です。つまり例えばキメル・センターのようにホール全体でサウンドをつくっていくのとはちょっと違うような。音楽が出来上がるのを遠巻きに傍観している感じというのかな。
ただ、このコンビで出ているショスタコーヴィチの交響曲のCDを聴いたときも同じ印象を持ったので、必ずしもホールのせいだけではないと思います。

さて休憩後のシベリウス。
ソリストのカヴァコスは今シーズンのフィラデルフィア管の定演でも聴きました。印象はそのときとだいたい同じで、「きびしさ」よりも「おおらかさ」が特徴のヴァイオリニストです。どんなに切羽詰ったシーンでも、ゆとりは決して忘れないといいますか。あたたかーいヴァイオリンです。まあ、そんなシベリウスはいやぁ!っていう人もいるでしょう。

その一方、オケの強奏のはっちゃけっぷりといったら。。。弾き方吹き方をそのままでシベリウスの交響曲とかをやったら、相当にすんごいものが出来上がっちゃうでしょう。ただ、二楽章冒頭のホルン(とファゴット)は息をのむほど美しかったです。

そして最後はボロディンの二番。
この曲に対するゲルギエフ/キーロフ・オケの愛情というか誇りのようなものを強烈に感じさせる演奏でした。いうなれば、「自分たちが一番この曲をうまく演奏できるんだ」という絶対的な自信というか。遅いテンポでじっくりと音楽を進めていきます。

ただし、そういった愛着や誇りが、この曲について語られるときに良く用いられる「ロシアの土臭さ」へと結びつくわけではありません。くりかえしますが、どこまでも音楽的。

ここまで思いが込められたボロディンというのは聴いたことがありませんでした。特に三楽章。木管からホルン、そしてオーケストラ全体で盛り上がっていくところは、胸が熱くならずにいられませんでした。

ああ、この曲をかつてやっていた頃、オケのメンバーと「イモくさーい」なんて言いあっていた自分をつかまえて、しばきあげてやりたいです。ああ、自分が情けない。

最後にゲルギエフに関する自分なりの小括。
「音楽的なるもの」への強烈な意志。どんなにとんがった曲でも、とっちらかった曲でも、ひとつの「音楽」へとつくりあげていく手腕こそが、ゲルギエフ最大の魅力とみた。
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by ring_taro | 2005-04-08 22:28 | クラシックの演奏会

ノリントンはおもしろい

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Apr. 1, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ヴォーン・ウィリアムズ: ロンドン交響曲
ハイドン: 交響曲第104番「ロンドン」
エルガー: コケイン序曲

ロジャー・ノリントン: 指揮

オール「ロンドン」プログラム。
つくづくおもしろいプログラミングをするなあと感心します。

演奏が始まる前にノリントンがトークショーをやりだしました。

まず、曲の順番を変更した理由について(当初はエルガー→ハイドン→RVWというまっとうな順番だったのです)、ノリントンは最後に華やかな「コケイン」を持ってきたかったということと、19世紀ヨーロッパでは演奏会のあたまに一番メインの曲を持ってくることが多かったということを説明していました。

この人、五分足らずのトークで10回以上、「19世紀のヨーロッパでは~」って言ってました。

次にオーケストラの配置について、「フィラデルフィアの美しい伝統は評価する」と前置きしながら、今回演奏する曲がつくられた時代には通常ヴァイオリンは両翼に配置されていたのであり、その方が効果的なのだと言っていました。

実際この日は左から 1st Vn, Vc, Va, 2nd Vn という並びだったのですが、それに加えてコントラバスが舞台後方にズラッと一列に並んでいたり、直管の金管セクションとティンパニが一番右にかたまっていたりと、こだわりを感じさせる配置でした。

最後に弦のビブラートについて、19世紀のオーケストラは現代のようなビブラートはしていなかったとおっしゃってました。

というわけでハイドンの弦は徹底してノン・ビブラート奏法。音程の面で相当辛そうに弾いていましたが、でもこの奏法で演奏されたハイドンやモーツァルトってすごく清らかな音楽に聴こえますよね。

それにしてもこの演奏会の実況録音をオケ名を伏せて聴いたとして、フィラデルフィア管と当てられる人はまずいないでしょう。ティンパニも、それで叩かれたら痛いだろーなーっていうすごく硬いバチで叩いてましたし。
そんななか、管楽器は結構普段どおりでした。トランペットも普通のピストンのやつ(多分、C管)で吹いてましたし。やはり管楽器の方が、曲ごとに奏法を変えるというのは難しいのでしょうか。

ハイドンではノリントンの指揮は遊びに遊んでいました。もし実況録音を聴かれたら、聴衆の笑い声が曲のあちこちで聞こえることでしょう。
ながーい総休止を曲のところどころでいれては客席に振りかえっておどけてみせたり、「ほら、ヴァイオリンは両翼にあったほうがおもしろいでしょ」って感じのジェスチャーをしてみたり。
おもしろいなー。

これ、ハイドンだからできるんですよね。モーツァルトやベートーヴェンではここまで遊べないと思います。僕はそんなハイドンが大好きです。

ロンドン交響曲とコケインでは一転、充実した響きを引き出していました。金管は今回のようにひと塊にまとまった方がいい音な気がします。

ロンドン交響曲を聴いて、ああこういう静かな終わり方よりは、コケインの派手な終わり方で演奏会を閉じたかったんだなとわかった気がしました。静かな終わり方の曲では恒例の「フライング拍手」が予想通りありましたし。この曲の冒頭と終わりでは、弦がこれまたノン・ビブラート奏法でロンドンの街の静寂美しく描いていました。

とりあえず、こんなおもしろい指揮者だとは知りませんでした。
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by ring_taro | 2005-04-03 22:02 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Mar. 25-26, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ドヴォルザーク: 水の精
バーバー: ヴァイオリン協奏曲
ショスタコーヴィチ: 交響曲第六番

ヤコフ・クライツベルク: 指揮
ヒラリー・ハン: ヴァイオリン

これは実に素晴らしいコンサートでした。
どれくらい素晴らしかったかって、あまりの素晴らしさに次の日にもう一回聴きに行ったくらいです。(まあ、一日目は8ドルしか払ってないのですが。)

バーバーのヴァイオリン協奏曲は序奏なしにヴァイオリンのソロから始まります。この構えた感じの無さがいいですね。実に軽やかな音楽です。

ヒラリー・ハンの魅力もその軽やかさにあると思います。なのでバーバーはぴったりなわけです。一楽章が始まったとたん、屋内なのにさわやかな風が吹いてきたような錯覚にとらわれました。

ハンは自分が弾かない部分はよくオーケストラが演奏しているのをぐるっと見回すのですが、一緒に聴きに行った人が「まるで草原のなかに立っているみたい」と言っていました。うまいこと言いますね。なるほど、草原にたたずみ風を歌を聴いているようです。

二楽章はオーボエの長いソロから始まるのですが、このピーター・スミスのソロがまた良かったです。この人のオーボエはウッドハムズのそれに比べと、実に硬ーい音でそれが時に不満なのですが、この曲にはとても合っていました。(ああ、でもウッドハムズの音でも聴きたかったかも。。。)
三楽章は一転、技巧的な音楽。ハンは完璧に弾ききりました。お客さんは大喝采。

軽やかで屈託の無いヴァイオリン。それがハンの魅力だと思います。アンコールで弾いたバッハの無伴奏など結構ロマンチックな演奏だったのですが、それでも決して重くならず、じめっとせず。

ああ、よかったなー。実にさわやかな気分になりました。
あ、でもこのあとショス6かー。。。

と休憩時間にちょっとテンションが下がりましたがとんでもない、後半のショスタコーヴィチはバーバーを上回るすさまじい演奏でした。

ここまで鳴り切ったフィラデルフィア管を聴いたのは初めてです。オーケストラのテンションがすごいすごい。どれくらいすごかったかというと、クライマックスでコンサートマスターの弦が一本ブチッて切れました。とにかくオケが入れこんでいました。

ハンと同様、指揮者クライツベルクの音楽も結構「軽め」です。速いテンポできびきび進めます。ショスタコの音楽にドロッとしたものとか、ネトッとしたものを期待する人が聴いたら少し不満が残る演奏かもしれません。(特に一楽章。)
しかしオーケストラを操るのがすごくうまいのでしょう。迫力のある音や魅力的な音を適所で鳴らし、そして曲全体を見渡すヴィジョンがあります。

とにかくオケがうまかった。(今更フィラデルフィア管に対して失礼なもの言いなのですが。)
Esクラリネットはサミュエル・カヴィーゼルだったと思いますが、主席モラレスの陰に隠れがちなこの副主席奏者は、今回は完全に主役の座を奪っていました。コンマスのデビット・キムの三楽章のソロも見事。このソロが曲全体のクライマックスへの合図となるのですが、キムを先頭にオケ全体が「それっ」と疾走し始める様は爽快でした。

しかしすごい曲ですねえ。聴きながら危うく取り乱しそうになりました。
こういう素晴らしい演奏を聴くと、もう悪魔がつくった曲としか思えない。

お客さんは大喜び。演奏終了後も興奮冷めやらず、いたるところで「素晴らしい指揮者だ」「また来てくれないものか」といった声が聞こえました。
フィラデルフィア管とはつながりが深い指揮者のようですので(2003年の全米ツアーに帯同したそうです)、また近いうちにこのコンビで聴けることを期待しています。



ちなみにこのコンサートでは久しぶりに弦の並びが

1st Vn, 2nd Vn, Va, Vc

という元のシフトに戻っていました。
しつこいようですが、僕はフィラデルフィア管に関してはこの並びが断然好き!
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by ring_taro | 2005-03-31 20:59 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団室内楽演奏会 (Mar. 20, 05)
キメル・センター、ペレルマン・シアター

モーツァルト: ピアノと管楽器のための五重奏曲 K. 452
ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲第16番 Op. 135
ポッパー: レクイエム
フォーレ: ピアノ三重奏曲

前回の室内楽演奏会に比べると、完成度がアレな曲が一曲もなく、大変高水準な演奏会でした。

今回の演奏会ではエッシェンバッハがピアニストとして登場。フィラデルフィア管が誇る管楽器の首席奏者たちと、モーツァルトの「ピアノと管楽器のための五重奏曲」を演奏しました。

この曲のメンバーは下記のとおり。

クリストフ・エッシェンバッハ: ピアノ
リカルド・モラレス: クラリネット
リチャード・ウッドハムズ: オーボエ
ダニエル・マツカワ: バスーン
デビット・ウェザリル: ホルン

曲の出だしからエッシェンバッハのピアノが重いし暗い。こんなピアノの音、ありえるのか。イメージとしては、曲がすすむにつれて音楽がどんどん沈みこむ感じ。この曲、こんなに重くて暗い音楽でしたっけ?

昨年同じホールでクリスティアン・ツィマーマンのピアノを聴いて、彼のピアノも相当重いものだったのですが、エッシェンバッハのそれとはかなり異質です。
ツィマーマンのピアノは確かに重いのだけれど、そこにすんごい磨きぬかれた音色が伴ったものでした。それに対して、エッシェンバッハのピアノは、なんていうかな、すべての音にいちいち影がさしている感じ。

そんなエッシェンバッハとは対照的に、クラのモラレスとオーボエのウッドハムズは重さや暗さとは無縁の音色。相変わらず音の一つ一つに羽がはえているような、軽やかで美しい音楽をつくっていきます。モーツァルトにはピッタリ。

そんな組み合わせではさぞやおかしな音楽が生まれてしまうかと思いきや、どっこいよくできたアンサンブルになってました。不思議なのですが、バランスが実によくとれていました。これが一流ということでしょうか。本当に不思議。

印象深かったのは、楽章のあいだ。
エッシェンバッハははやく次の楽章に入りたくて、鍵盤の上に手を置いているのに、ウッドハムズはのんきに羽根を使って楽器の掃除をはじめちゃうのです。エッシェンバッハはその作業をチラチラ見ながら、両手を膝の上に置いたりまた鍵盤の上に構えたりを繰り返して、明らかにイラついてました。

僕はエッシェンバッハの音楽にフィラデルフィアに来て確実にハマり始めているのですが、この楽章間でせかせかする癖だけは何とかならないかなー。
前にもちょっと書きましたが、悲愴の三楽章が終わった直後に拍手喝さいが起こってしまったときも、ほぼアタッカで四楽章を始めてしまいました。音楽台無し。音楽的な意味があるのでしょうが、もう少しこう、ゆとりが欲しいなーと思うことが結構多いのでした。

その後の三曲もとてもクオリティが高い演奏でした。

ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲は何度聴いても深い感動を覚えるし、ポッパーの三台のチェロとピアノのための「レクイエム」はとても美しい曲でした。

そしてフォーレ。
晩年のフォーレの音楽って、相当厳しい曲想の中でいつの間にか「詩情」だとか「やさしさ」だとかが浮かびあがってくる感じがたまらなく好きです。
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by ring_taro | 2005-03-29 20:21 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Mar. 18, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ラヴェル: 「マ・メール・ロワ」組曲
シエラ: ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲
サロネン: インソムニア
ラヴェル: 「ダフニスとクロエ」第二組曲

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
アンドレス・カーデネス: ヴァイオリン
ロベルト・ディアス:ヴィオラ

21世紀になってから作曲された二曲をラヴェルではさむというプログラム。
個人的にはノラン・ミラーがラヴェルの両曲のホルンの1stを吹いていたことがとてもうれしかったです。
(彼の現在の肩書きは"Retired Principal"なのですが、どういうことなのでしょうか?ちなみに現在、主席ホルンは空席の状態のようです。)

今までよくわかっていなかったのですが、僕が普段から慣れ親しんでいたのは「マ・メール・ロワ」のバレエ音楽版だったようです。いきなり予想していなかった始まり方だったので、ちょっとビックリしました。

ゆっくりめのリズムに暗めの音色で、エッシェンバッハは実に緻密な音楽をつくっていきます。このような曲ではフィラデルフィア管の木管セクションのうまさが本当に際立ちます。
最後の曲のクライマックスへの持っていき方も本当にうまいです。いつも思うのですが、エッシェンバッハという人はリハーサルの段階で相当に音楽をつくりこんでいるのではないでしょうか。一度リハーサルを見学してみたいものです。

シエラの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲」はフィラデルフィア管とピッツバーグ響が共同で委託した曲だそうです。プエルト・リコ出身のシエラによる曲のソリストを、キューバ出身のカーデナス(ピッツバーグ響コンサートマスター)とチリ出身のディアス(フィラデルフィア管主席ヴィオラ奏者)がつとめるという企画。
ソリストというよりはオーケストラのなかの一部のようにあつかわれている曲で、三楽章のけだるいムードから、終楽章のオケ・ソロそろって疾走する音楽へと移っていくところが一番印象に残っています。

三曲目は指揮者として高名なフィンランド出身のエサ=ペッカ・サロネンによる「インソムニア」。東京のサントリーホールが作曲を委託した曲だそうです。四本のワグナー・チューバが効果的に使われていました。確かに「不眠症」とワグナー・チューバの音色って、なんだか合うような気がするな。

最後は再びラヴェル。「ダフニスとクロエ」は二ヶ月ほど前におなじホールでマゼール/ニューヨーク・フィルの演奏を聴いたばかりなので(そのときは合唱付きの全曲版)、どうしてもそれとくらべて聴いてしまいます。ニューヨーク・フィルのギラギラしたカラフルで官能的な音色に対して、今夜のエッシェンバッハ/フィラデルフィア管はどこまでも音楽的。「マ・メール・ロワ」と同じく暗めのしぶーい音色で進められていきます。

近年のエッシェンバッハの音楽は、時としてその奇抜さばかりが話題になりがちですが、オケに充実した響きをつくりあげていること、こけおどしではない音楽的なサウンドづくりにつとめていることは忘れてはいけないことだと思います。

ところで「ダフニスとクロエ」が終わった直後にちょっと興味深いことがありました。

僕の隣で聴いていた老夫婦のおじいちゃんの方が、演奏が終わるや否や怒りだして「ひどい演奏だ」といって出て行ってしまったのです。往年のフィラデルフィアの名指揮者たちの演奏と比べてしまったのでしょうか。ちなみにプログラムによると、この第二組曲はオーマンディの十八番中の十八番だそうで、彼の在任中ほぼ二年に一度は定期演奏会に組み込まれていたそうです。
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by ring_taro | 2005-03-27 20:20 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (Mar. 12, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

スメタナ: 『売られた花嫁』より三つの舞曲
グリーグ: 歌曲集
ドヴォルザーク: 交響曲第七番

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
バーバラ・ボニー: ソプラノ

前の日にノルウェーはオスロから来たオケのリヒャルト・シュトラウスを聴いたと思ったら、今日はアメリカのオケ、アメリカの歌手でグリーグを聴くと。

なんだか不思議な感じです。
かつてパリに旅行に行ったときにフランス国立管の演奏会に行ったら、スヴェトラーノフの自作自演とかを聴いたということがありました。なんだか不思議な感じでした。

それはさておきバーバラ・ボニーの歌ってすごくいいですね。
フォルティシモでも決してキンキンすることのないソプラノって素敵です。ホールの空気に溶けていく感じ。やさしさと冷たさが一緒になった歌声はこれらのグリーグの曲にぴったりでした。
ちなみに曲は「モンテ・ピンチョより」、「ソルヴェイグの歌」、「ソルヴェイグの子守唄」、「白鳥」、「春」の五曲。

そして休憩後はドヴォルザークの七番。
この半年くらい、エッシェンバッハの指揮でいろいろな曲を聴いて思ったのですが、彼の場合は曲想がシリアスであればあるほど名演になる確率は高いです。ドヴォルザークなら八番よりも七番、チャイコフスキーなら五番よりも「悲愴」といった感じです。

エッシェンバッハはそういったシリアスな曲を、より深刻な方へ深刻な方へ持っていこうとします。普通の指揮者ならボヤぐらいの出来事が、彼の手にかかると大火災になります。

それゆえに彼の音楽は「重い」。前任者のサヴァリッシュの音楽も重かったのですが、それは彼のテンポであったり音色が重いのであって、音楽自体は結構軽やかなものだと思います。エッシェンバッハの重さは「音楽自体の重さ」ですね。

聴き手としては、彼の音楽にいっさいの身をゆだねて振り回される感じが一番いいかと思います。そうしないと、彼が曲のいろいろなところにしこんだ仕掛けに出くわすたびに、冷めてしまうことになります。そもそも彼は大真面目なのですし。

というわけでドヴォルザークの第七番。
一楽章冒頭からして、これからとてつもないものが始まることを予感させます。そしてその予測どおり、これから一大叙事詩が始まるがごとくの一つ目のクライマックスをむかえます。そのままただならぬ気配のまま曲は進むのですが、ところどころででてくる管楽器の牧歌的なソロとのミスマッチがたまりません。そして曲は急展開。落しどころの見えぬまま、不安な感じを残しつつ一楽章は終わります。

二楽章は木管の緊張感のあるアンサンブルから始まります。ただこの楽章、フィラデルフィア管の木管奏者や弦の美しい音色を堪能することができるので、全曲のなかでオアシスのような存在でした。ただ、ホルンがでてくると急に音楽がデモーニッシュになります。

三楽章は一番ビックリしました。音楽が重過ぎて、ブルックナーのスケルツォみたいになってます。とにかく自分のかかわる音楽には内容を詰めて詰めて詰めこもうという、彼の音楽人としての矜持をみました。

四楽章になってもテンションは持続したまま。冒頭のトランペットの合いの手は最後の審判のよう。曲調は途中から次第に安らぎを感じさせるものとなるはずなのですが、エッシェンバッハのドボ7は深刻なまま。ここではきっとテンポを粘らせるだろうなーと思ったところは、期待通り粘ってくれます。圧巻は最後の最後。急ブレーキ→猛ダッシュ→急ブレーキ。ムチ打ちになるかと思いました。ここは楽譜どおりと言われればそうなのですが、とにかく何もかもが「過剰」。

以上、聴きおわったらクッタクタの40分でした。
この音楽のもつ「深刻さ」は、オーマンディにもムーティにもサヴァリッシュにもなかったものだと思います。今後、フィラデルフィア管がどうなっていくのか、本当に注目ですよ。

ちなみにこの演奏は4月にはインターネットでも聴くことができると思います。
日本の皆さんもぜひ聴いてください!
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by ring_taro | 2005-03-25 19:40 | クラシックの演奏会