アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
カレンダー

<   2005年 05月 ( 16 )   > この月の画像一覧

先の5月21日の記事のコメント欄に、シンガポール在住のChiaraさんがフィラデルフィア管弦楽団のシンガポール公演について書いて下さりました。Chiaraさん、どうもありがとうございます。二公演とも聴きに行かれたのですね、うらやましい。

こうして日本やシンガポールの方と音楽についてお話ししていると、ブログはじめて本当によかったなーって思います。

ところで最近、ニューヨークに出かけたり、友人が日本から遊びにきたり、またニューヨークに行ったりで、なかなか更新ができないのですが、来週くらいからまたせっせと書いて行きたいです。

今週末、ニューヨークでロサンゼルス・フィルの演奏会を聴いてきます。曲は僕の大好きなショスタコーヴィチの10番。久しぶりの演奏会。あー、待ち遠しい。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-31 10:44 | ひとりごと
アジア・ツアー中のフィラデルフィア管弦楽団は、あっという間に日本を去って行ってしまったようですね。今頃はクアラ・ルンプールでしょうか。

在シンガポールの方からフィラデルフィア管の公演に行くとのコメントをいただきました。ぜひ感想をお聞かせ願いたいものです。
シンガポールでは、日本公演ではなかったバルトークの「管弦楽のための協奏曲」をやるのですね。フィラデルフィアで聴いたのは、暗く、そしてうねりにうねる圧倒的なバルトークでした。あのクライマックスの衝撃は忘れられません。

さて、僕はというと、フィラデルフィア管弦楽団が身近にいない寂しさに耐えかねている毎日が続いております。なんとも贅沢な苦しみですが。

ちなみにフィラデルフィア管は6月7日にアジア・ツアーを終えた後も、夏は休みなく大忙しです。

まず6月24日から30日までは、本拠地キメル・センターで"Absolutely Mozart Festival"というモーツァルト曲を中心にした音楽祭をやります。指揮は主にピーター・ウンジャン。ソリストはピアノのレオン・フライシャー、このオケの首席クラリネット奏者のリカルド・モラレスなど。
(僕は残念なことにこの時期は日本にいるので聴けません。)

7月6日からはフィラデルフィア近郊の野外コンサート場、マン・センターで公演をします。ソリストはヴァイオリンのサラ・チャン、パールマン、フルートのゴールウェイなど、やたら豪華。スター・ウォーズやロード・オブ・ザ・リングといった映画音楽をやったりもします。このシリーズは23日のロセン・ミラノフ指揮のベートヴェンの交響曲第9番で終わります。
余談ですが、個人的には8月にこのマン・センターにブライアン・ウィルソンのスマイル・ツアーがやってくるのが楽しみ。

そして8月(3日から20日まで)のフィラデルフィア管は、ニューヨーク州サラトガに本拠地を移します。この会場もどうやら野外あるいは半野外のようですね。サラトガ・シーズンの音楽監督はシャルル・デュトワ。ソリストはマルタ・アルゲリッチ、ヨーヨー・マなど。

そして9月の22日から2005−06シーズンが始まります。最初のプログラムは、ベートーヴェンの交響曲第一番と第五番の間にデュティユーの曲をはさむという、エッシェンバッハらしい意欲的なプログラム。

その前にオープニング・ナイトがあるのでしょうが、まだアナウンスはないと思います。

いかがですか。夏も大忙しですね。オーケストラの団員をやるのも大変ですね。僕たち聴き手としては、聴く機会が増えるのは嬉しいかぎりですが。
僕はマン・センターと、そしてできたらサラトガには行きたいと思っております。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-26 22:10 | フィラデルフィア管弦楽団

パソコンをかえました

b0044005_21444569.jpg
5年前に買ったパソコンが、もはやあまりにアレになってしまっので、思いきって買いかえました。
マックを使うのは初めてですが、いいですねー。画面がすごいきれい。まだ若干の不都合はありますが、おおむね順調に切り替えられました。

ちゃんとブログにも投稿できたし。できてますよね?
[PR]
by ring_taro | 2005-05-25 21:52 | ひとりごと

アジア・ツアーいろいろ

5月17日のThe Philadelphia Inquirer紙に、フィラデルフィア管のアジア・ツアーについての長めの記事が載っていました。面白そうなポイントを箇条書き風にご紹介します。


ツアーは日本から始まり、中国、シンガポール、台湾、香港、ソウル。アジアのなかで130人の人間と2万ポンド(約9トン)の楽器が30時間の旅行をする。ヨーロッパ・ツアーが楽に感じられるほどだ。

リハーサルはフィラデルフィアを発つ前にも、主にラン・ランとのベートーヴェンなどのためにおこなっていた。アジアでは演奏会と移動の合間に5回のリハーサルを予定。

ツアーの費用は300万ドル。しかし演奏会の入場料による収入は(一回の演奏会あたり?)15万ドルから20万ドル。これでは費用すべてをカバーできないので、多くのスポンサーをつのり、その収入が75万ドル。そのスポンサーのなかにはペンシルヴァニア州も含む。

5月初めに8人の団員の引退が発表されたが、そのなかでツアーに帯同するのはクラリネットのドナルド・モンターロのみ。(ということは、ホルンのノラン・ミラーはいないのですね。。。)この空いたポジションが完全にうまるには一年以上かかるだろう。

というわけで、今回のツアーにはエキストラの奏者が22人も参加している。(確かにこちらでのチャイコフスキーのプログラムでは、奏者のなかにフィラデルフィア室内管のメンバーを見かけた気がします。)この人数はちょっと普通じゃない。

すばらしい音響のサントリーホールでのマーラー・チクルスはCDリリースのために録音される。このホールではかつてサヴァリッシュの時代にも録音がおこなわれた。(何の曲?)また、マーラの五番は現地のテレビで放送される。(うおー、マジでか。誰か録画みせてくれー。)

指揮者のなかには、マーラーの交響曲を連日演奏することに疑問を投げかける人もいる。かつて音楽監督たちは、ツアー中に二曲以上のマーラーを取り上げることはなかった。エッシェンバッハ氏によると、「その前にモーツァルトをやったり、チャイコフスキー・プロを間にはさんだりするし、僕は健康そのもの。ノー・プロブレム」(意訳)だそうな。

北朝鮮の核実験についての報道が連日されているなか、韓国で演奏することに不安はないのかという質問に、エッシェンバッハ氏は「確かに深刻な問題だけどね、まあ、あまりに神経質になるのだったら、僕は暗い部屋にずっと隠れてなきゃいけなくなっちゃうよ」(超意訳)だそうな。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-23 23:58 | フィラデルフィア管弦楽団
リベラ33さんがフィラデルフィア管弦楽団京都公演のすばらしい演奏会評をTBしてくださいました。

「この演奏を聴いていてふたつの伝統が蘇ったと思いました。それはオーマンディのサウンドとストコフスキーの陶酔です。」

すばらしいですね。

ところで、日本でフィラデルフィア管の演奏会に行かれた方にお聴きしたいのですが、ホルンの1stはジェフリー・ラングだったでしょうか?ノラン・ミラーはツアーには参加はしてないとは思いますが。

来シーズンの首席ホルンの行方は、僕の音楽鑑賞人生にも大きく関わってくるのです。おおげさですが。(お遊び程度ですが僕もホルンを吹くので。)
どこかでツアー用の団員のロースターが見られればいいのですが。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-22 23:49 | フィラデルフィア管弦楽団
日曜にはサントリー・ホールでエッシェンバッハ/フィラデルフィア管のマーラーの交響曲第五番の演奏会があるようですね。あー、聴きに行きたい。

え、前プロはラン・ランのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番?おもしろそー。勝手な想像ですが、相当にファンタスティックな演奏になるのではないでしょうか。

そういえば昨年11月19日にフィラデルフィアでマーラーの五番は聴いていたのですが、感想はこのブログには書いていませんでした。思えばあの演奏会がエッシェンバッハの音楽に惹かれ始めたターニング・ポイントだったなあ。

正直いいまして、一楽章・二楽章の過剰な表情付けには辟易したものでした。僕は「過剰な表情付けのマーラー」は大好きだったはずなのですが。。。とにかくいたる所で粘るので音楽が流れないのです。これはしんどいことになってきたなあ、と思ったものでした。

ところがです、三楽章スケルツォでそのエッシェンバッハの音楽づくりが、曲とピッタリあい始めたのです。これは自分の耳がなれてきたのか、このスケルツォがエッシェンバッハの志向する音楽に向いていたのか、はたまたオーケストラがこなれてきたからなのか、そこのところはよくわかりませんが、とにかくここから先は感動の嵐でした。

予想よりもあっさりしたアダージェットをへて、終楽章では喜びの爆発。オケも指揮者もものすごく入れ込んでいました。相変わらず音楽は粘るのですが停滞感は全くなく、強力な推進力でもってクライマックスまでぐいぐい進んで行きます。

ああ、もう一度聴きたいなあ。
この二週間だけでも日本に帰りたいなあ。

ついでにこのときのThe Philadelphia Inquirer紙(Nov. 22, 2004)の演奏会評も調べてみたのですが、「譜面として書かれた音楽というよりも、いまここで生まれたかのようだ」といった感じに評価しています。この演奏会評によるとアダージェットには12分もかかったそうな。えー、そんなに長かった?ちょっと意外でした。

そして記事の最後はこんな一文。

Momentarily, you forgot every other Mahler 5th you'd ever heard.

いいですねー。ん?でも"momentarily"って、それ誉めているのか?
でも、その刹那的な感じもエッシェンバッハの魅力ではあるなあ。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-21 22:12 | フィラデルフィア管弦楽団
以前日本に一時帰国して実家においてあった本やレコードを整理した際に、吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫、1983年)が出てきて、ついつい読みふけってしまいました。10代の頃の自分はこういった本を食い入るように読んでいたのですね。かわいいような、かわいくないような。かわいくはないか。

この本に載っていたエッシェンバッハについてのエッセイがとても面白かったです。何十年も前の、しかもピアニストとしての彼の演奏会評なのですが、今の指揮者エッシェンバッハについての手がかりがそこにあるような気がするのです。

吉田氏はエッシェンバッハのショパンをルービンシュタインのそれと比べます。まず吉田氏はルービンシュタインのショパンを、それ以前のサロン的なスタイルや「孤独な告白」的なイメージをきれいさっぱりと洗い落とした、爽やかで瑞々しい時にはスポーツ感覚に満ちた詩に還元した演奏と位置づけています。そしてエッシェンバッハのショパンについてこう書きます。

エッシェンバッハは、そういうショパンに、もう一度、《魂》という厄介なものを戻した、と私は思うのである。ただ問題は、その《魂》が、ショパンのものか、それともエッシェンバッハのものかということだ。(pp. 437-38)

エッシェンバッハの音楽に違和感をもつ人がいるとしたら、ここの部分なのではないでしょうか。魂そのものの存在をうっとうしく感じたり、あるいはその魂なるものがあまりに本質からはなれているように感じたり。
吉田氏の結論は、その魂はショパンのものでもありエッシェンバッハのものでもあるというものです。個人的には、彼の指揮した音楽を聴くと、それが重なりあうときも、ズレちゃうときもある気がします。重なりあったときにはすばらしい演奏になるのですが。

もう一ヶ所、現在のエッシェンバッハの音楽を知る手がかりになりそうな部分を引用させていただきます。

私の見たところ、このピアニストは自分のショパンには異論のある人の多いのは当然と覚悟したうえで、こうひいているにちがいないのである。[…] その結果は、必ずしも彼が考えている通りではなく、彼がショパンに近いと思ったことが案外遠く、逆に彼が思いきり自分流にやったつもりのことがかえってショパンの本旨に沿っているといった逆説的なあり方にもなっているように推察したりもするのである。(p. 438)

エッシェンバッハがとても感動的な演奏をしたときでも、それが必ずしも彼が完全に音楽をコントロールできた故のものではないと感じることがあります。そういったことをうまく書いているなあ、さすがに大家は違うなあととても感じ入ってしまいました。

エッシェンバッハの音楽を聴くときには、この「コントロールできていないゆえの魅力」も楽しむべし、ですね。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-20 23:02 | 音楽全般
フィラデルフィア管弦楽団のアジア・ツアーのHPを発見。

いろいろと面白い写真があります。こちらの演奏会で見慣れた団員さんたちが寿司屋のカウンターに並んで座って寿司を食べている絵は、なかなか面白いものがあります。

今後も随時写真はアップされるようですね。

演奏会に行かれる方は、ぜひ感想を聞かせてくださいね。

追記: 団員・スタッフによるブログもあるのですね。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-19 07:13 | フィラデルフィア管弦楽団

想像してごらん

フィラデルフィア管弦楽団がアジアに行ってしまいました。

日本の皆様には楽しみな毎日でしょうが、僕には退屈このうえない日々です。
そもそもこのBlogの更新をするにもネタがない。

というわけで、相当古いものですが、興味深かった新聞記事をご紹介します。

“想像してごらん
もしマゼールがここにいて
エッシェンバッハがニューヨークにいることを”

これは今年1月23日、ニューヨーク・フィルがフィラデルフィアで公演をする直前にThe Philadelphia Inquirer紙に書かれたデビット・スターンズ氏による記事のタイトルです("Imagine: Maazel here, Eschenbach in New York")。

彼はマゼールとエッシェンバッハの特徴を、ニューヨークとフィラデルフィアという二つの街の気質とからめて論じています。そうかなあと疑問に思うこともいくつかありましたが、とても面白い記事でした。拙い訳で申し訳ございませんが、下記がその記事の全文です。
(訳に対する苦情、原文に対するお問い合わせ等がありましたら、メールをください。)

******
そんなことを考えるのはいけないことだとわかっていても、フィラデルフィア管弦楽団のサポーターは、(少なくとも時々は)ニューヨーク・フィルハーモニックの定期会員の方がいい思いをしているんじゃないかと気がかりになってしまう。特に今は―フィラデルフィアがクリストフ・エッシェンバッハとの二期目のシーズンでまだ落ち着いていないときに、ロリン・マゼールがニューヨーク・フィルの音楽監督として始めて金曜にキメル・センターにやってくるのだから。

歴史は逆になりえた。エッシェンバッハはニューヨーク・フィルの音楽監督の座をめぐっての最大のライバルだったのだし、もしマゼールが2000年11月のフィルハーモニックへの客演で上手くいかなかったらエッシェンバッハがそのポストについていたかもしれない。そうしたら、オーケストラの作用として容易に想像できることだが、マゼールがフィラデルフィアに来ることになったかもしれない。もしそうなっていたら、彼らはその才能を無駄にしていただろうか?それとも、もっとよい結果になっていただろうか?

こういった疑問の答えを金曜のコンサート(マゼールが特に得意とする作曲家たちのプログラムだ。何しろラヴェルの「ダフニスとクロエ」にスティーヴン・ホフをピアニストに迎えたラフマニノフなのだから)で得ようとするべきではない。一回のコンサートでその人の仕事ぶり完全に描ききることは困難だ。ましてやこの街―オーケストラの音楽監督が街全体の文化的な雰囲気を決定づけてしまうほどのインパクトがある、この街では。ニューヨークでなら、マゼールは大勢いる中の一人にすぎない。[音楽監督が誰であるべきかという]答えは、すべからく「この街が何を必要としているのか」という事に基づいていなければいけない。「何を欲しているのか」ではなくて。

薄っぺらいことを言うならば、シックでコスモポリタンなエッシェンバッハには、ニューヨークのヨーロッパ中心的な音楽社会があっているだろう。彼の舞台の外での穏やかな人柄は、かつての横柄なイメージからはうって変わったナイス・ガイ版ニューヨーク・フィル(最近の客演指揮者は「客演できてよかった」なんて言うのだ)と馴染む。

マゼールはフィラデルフィアの争い好きな気質にぴったりかもしれない。今やこのオーケストラの近年の労使交渉における妥協なき姿勢は、「伝説のフィラデルフィア管」を産業社会のタフ・ガイに変えてしまったのだから。マゼールはウィーン国立歌劇場の地位を騒乱の中で生き残ったし、それに彼ならフィラデルフィア管の頑固な年配奏者たちを引退させることができるかもしれない。(もし必要ならセメントでできた靴を使ってでも。)

しかしコミュニティに対する貢献のことを考えるとどうだろう?社会的人格は?長期的な視座で考えると?どちらの指揮者も人好きのする人間ではしないし、プレスとの良好な関係も築けていない。マゼールが本当に自分のことしか考えない人間なのかどうかは置いておくとして、彼の振る舞いがあまりにそのように受け取られるので、彼は公共の場であまりしゃべらなくなったし、自分がどれだけ傲慢な人間に見られているのか気の許せる友に聞くようになった。

エッシェンバッハはエッシェンバッハで、まったく別の問題を抱えている。演奏前のトークで彼がしゃべっているのを聞くと、まるで寝起きみたいだ。もちろん彼が努力をしているのは認めなければならない。フィラデルフィアの音楽愛好家はこの演奏前のトークが大好きなのだ。それに彼はやればできるのだ。1月10日のマーチン・ルーサー・キングJr記念コンサートでは、彼はピアニストとして登場しただけでなくキング牧師についてのスピーチを確信と雄弁さをもってやってのけた。

どちらの指揮者もあまりの「空気の読めなさ」で人をいらつかせることがある。それはここ最近の数シーズンでより顕著になってきた。エッシェンバッハは彼の旧友であるチモン・バルトをしょっちゅう呼び戻してくる。彼が余りに酷いブラームスのピアノ協奏曲第二番を、奇妙な即興の詩の朗読と不快なバックステージでの立ち振る舞いとの合わせ技でやってのけた後でもだ。マゼールは定期的に彼にとってはじめての楽器であるヴァイオリンを弾きたがる。しかしそれは伝え聞いたところによるとチモン・バルトのピアノを聴く方がましというような恥ずかしいもののようだ。

エッシェンバッハもマゼールも奇妙な(しかし正反対な)演奏面での変化をおこす。エッシェンバッハは必ずしも同一プログラムの最初の日の演奏がベストとは限らない。リハーサルで彼は危険だと思う部分を集中的にさらうので、彼の解釈が初日にしっかりと出来上がっているとは限らないのだ。

マゼールは初日に強烈な演奏をしそんじるということはまず無いが、日が経つにしたがい次第に演奏がフ抜けたものになったり奇妙なものになったりする。まるで彼自身が退屈するのを避けようとしているみたいだ。先週ニューヨークにおいて彼は、モーツァルトの交響曲第29番で気合と趣味のよさをともなう、とても入れ込んだ指揮をした。しかしベートーヴェンの第九のバスーンのソロを、まるではったりか冗談かのようにしてしまった。あるいは「フィデリオ」の演奏会形式での上演のとき、グランド・フィナーレになるまで彼はまったく汗をかこうともしなかった。こういったことが彼をつかみ所がない指揮者にしている。彼は私たちを星の高みにまで引き上げてくれたかと思ったら、いきなり急降下させるような目にもあわせる。

それでも、マゼールの躍動するテンポ、鮮やかなバトン・テクニック、そしてスタンダードなレパートリーを好む姿勢は、前音楽監督のウォルフガング・サヴァリッシュに培われたフィラデルフィアの趣味にぴったり合うかもしれない。ちょっとやそっとの刺激では物足りなくなってしまったニューヨーカーたちは、エッシェンバッハの主観的でテンポ自在な解釈と、よく練られたプログラミング(例えば最近のルチアノ・ベリオの曲とワーグナーのパルシファル第三幕という考え抜かれた組み合わせなど)に夢中になるかもしれない。フィラデルフィアの人々は、マゼールによるエキサイティングだが芸術的には疑問が残る「指輪」の管弦楽組曲版(16時間にも及ぶ「ニーベルンゲンの指輪」伝説のグレーテスト・ヒッツのようなものだ)の方が喜ぶかもしれない。

それでも、私は両指揮者が現在最良の場所にいることを確信している。ワーグナーとはあまり縁が無いフィラデルフィアにおいては、パルシファルから一幕を取り出したもののほうが、本質からはかなり離れて歪められたものよりもよかったと思う。

マゼールが退屈なコンサートをしたとしても、ニューヨーカーにとっては、その週のうちにもうすばらしいオーケストラ・ミュージックを聴く機会がなくなってしまったわけではない。しかしこの街ではどうだろう。フィラデルフィア管弦楽団に変わるものなど無いのだ。それにこの街特有のクエーカーの商人気質もあいまって、退屈な指揮などしたらそれはもう大事なのだ。かつての音楽監督リッカルド・ムーティの最後のシーズンについてこの街の人々が語ることを聴いてみるがいい。確かにエッシェンバッハもそのような感情的な事態に陥ったりする。たいていの場合は彼の論争を呼びがちな遅いテンポによるものだが。

いずれにせよ、金曜にマゼールの指揮のもと聴けるであろう、壮大でよく溶け合った音の競演を楽しもう。しかしそれを束の間の感動なだけにしないで、演奏者とコミュニティとの深い結びつきにしよう。ニューヨーカーにとってわかりきったことの再確認であることが、フィラデルフィアにとってはそれ以上のものになるかもしれない。フィラデルフィアの人々を安寧の地から引きずり出すような演奏会が、この街のコンサート・シーンに予期せぬ知的な活気をもたらすかもしれない。エッシェンバッハが違う色の鳥だということを知ることこそが、フィラデルフィアが彼の巣であることの理由になるかもしれないのだ。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-18 23:49 | フィラデルフィア管弦楽団
5月14日のThe Philadelphia Inquirer紙にフィラデルフィア管のチャイコフスキーの演奏会評が載っていました。

アジア・ツアーにそなえてこのプログラムでは、前主席ホルン奏者のノラン・ミラーをはじめ八人の引退する団員のほとんどがのっていなかったのですが、そのことをうけて「サヴァリッシュの時代は完全に過去のものとなってしまった」と寂しそうです。しかしこれは新たな時代の始まりであり、副主席のジェフリー・ラングによる交響曲の二楽章のホルン・ソロはそのことを強く予感させるものであったと書いています。

エッシェンバッハの解釈については「満足のいく要素に満ちている(full of gratifying elements)」とおおむね評価しています。特に二楽章冒頭は「音楽表現のあり方としての希有の例(a startling instance of timbre as an expressive entity)」と褒めちぎっています。この二楽章の冒頭、要チェックですね。

ラン・ランのピアノについては、オーケストラとの協調性を高く評価しています。これまでのパフォーマンスに比べてのこの向上の要因は、「解釈よりも[オーケストラあるいは指揮者への]服従(more about submission than interpretation)」によるものかもしれないとしながらも、「これこそ演奏者が志向せねばならない音楽のあり方である(this is music that performers must seize)」と書いています。

へー、昔のラン・ランは今回の演奏会以上に奔放なスタイルだったんだ。どんなものだったのでしょうね。
でも僕には現在のラン・ランも十分に鮮烈です。
[PR]
by ring_taro | 2005-05-18 00:44 | フィラデルフィア管弦楽団