アメリカはフィラデルフィアに住む“りんたろう”のブログ


by ring_taro
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リベラ33さんがフィラデルフィア管弦楽団京都公演のすばらしい演奏会評をTBしてくださいました。

「この演奏を聴いていてふたつの伝統が蘇ったと思いました。それはオーマンディのサウンドとストコフスキーの陶酔です。」

すばらしいですね。

ところで、日本でフィラデルフィア管の演奏会に行かれた方にお聴きしたいのですが、ホルンの1stはジェフリー・ラングだったでしょうか?ノラン・ミラーはツアーには参加はしてないとは思いますが。

来シーズンの首席ホルンの行方は、僕の音楽鑑賞人生にも大きく関わってくるのです。おおげさですが。(お遊び程度ですが僕もホルンを吹くので。)
どこかでツアー用の団員のロースターが見られればいいのですが。
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# by ring_taro | 2005-05-22 23:49 | フィラデルフィア管弦楽団
日曜にはサントリー・ホールでエッシェンバッハ/フィラデルフィア管のマーラーの交響曲第五番の演奏会があるようですね。あー、聴きに行きたい。

え、前プロはラン・ランのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番?おもしろそー。勝手な想像ですが、相当にファンタスティックな演奏になるのではないでしょうか。

そういえば昨年11月19日にフィラデルフィアでマーラーの五番は聴いていたのですが、感想はこのブログには書いていませんでした。思えばあの演奏会がエッシェンバッハの音楽に惹かれ始めたターニング・ポイントだったなあ。

正直いいまして、一楽章・二楽章の過剰な表情付けには辟易したものでした。僕は「過剰な表情付けのマーラー」は大好きだったはずなのですが。。。とにかくいたる所で粘るので音楽が流れないのです。これはしんどいことになってきたなあ、と思ったものでした。

ところがです、三楽章スケルツォでそのエッシェンバッハの音楽づくりが、曲とピッタリあい始めたのです。これは自分の耳がなれてきたのか、このスケルツォがエッシェンバッハの志向する音楽に向いていたのか、はたまたオーケストラがこなれてきたからなのか、そこのところはよくわかりませんが、とにかくここから先は感動の嵐でした。

予想よりもあっさりしたアダージェットをへて、終楽章では喜びの爆発。オケも指揮者もものすごく入れ込んでいました。相変わらず音楽は粘るのですが停滞感は全くなく、強力な推進力でもってクライマックスまでぐいぐい進んで行きます。

ああ、もう一度聴きたいなあ。
この二週間だけでも日本に帰りたいなあ。

ついでにこのときのThe Philadelphia Inquirer紙(Nov. 22, 2004)の演奏会評も調べてみたのですが、「譜面として書かれた音楽というよりも、いまここで生まれたかのようだ」といった感じに評価しています。この演奏会評によるとアダージェットには12分もかかったそうな。えー、そんなに長かった?ちょっと意外でした。

そして記事の最後はこんな一文。

Momentarily, you forgot every other Mahler 5th you'd ever heard.

いいですねー。ん?でも"momentarily"って、それ誉めているのか?
でも、その刹那的な感じもエッシェンバッハの魅力ではあるなあ。
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# by ring_taro | 2005-05-21 22:12 | フィラデルフィア管弦楽団
以前日本に一時帰国して実家においてあった本やレコードを整理した際に、吉田秀和著『世界のピアニスト』(新潮文庫、1983年)が出てきて、ついつい読みふけってしまいました。10代の頃の自分はこういった本を食い入るように読んでいたのですね。かわいいような、かわいくないような。かわいくはないか。

この本に載っていたエッシェンバッハについてのエッセイがとても面白かったです。何十年も前の、しかもピアニストとしての彼の演奏会評なのですが、今の指揮者エッシェンバッハについての手がかりがそこにあるような気がするのです。

吉田氏はエッシェンバッハのショパンをルービンシュタインのそれと比べます。まず吉田氏はルービンシュタインのショパンを、それ以前のサロン的なスタイルや「孤独な告白」的なイメージをきれいさっぱりと洗い落とした、爽やかで瑞々しい時にはスポーツ感覚に満ちた詩に還元した演奏と位置づけています。そしてエッシェンバッハのショパンについてこう書きます。

エッシェンバッハは、そういうショパンに、もう一度、《魂》という厄介なものを戻した、と私は思うのである。ただ問題は、その《魂》が、ショパンのものか、それともエッシェンバッハのものかということだ。(pp. 437-38)

エッシェンバッハの音楽に違和感をもつ人がいるとしたら、ここの部分なのではないでしょうか。魂そのものの存在をうっとうしく感じたり、あるいはその魂なるものがあまりに本質からはなれているように感じたり。
吉田氏の結論は、その魂はショパンのものでもありエッシェンバッハのものでもあるというものです。個人的には、彼の指揮した音楽を聴くと、それが重なりあうときも、ズレちゃうときもある気がします。重なりあったときにはすばらしい演奏になるのですが。

もう一ヶ所、現在のエッシェンバッハの音楽を知る手がかりになりそうな部分を引用させていただきます。

私の見たところ、このピアニストは自分のショパンには異論のある人の多いのは当然と覚悟したうえで、こうひいているにちがいないのである。[…] その結果は、必ずしも彼が考えている通りではなく、彼がショパンに近いと思ったことが案外遠く、逆に彼が思いきり自分流にやったつもりのことがかえってショパンの本旨に沿っているといった逆説的なあり方にもなっているように推察したりもするのである。(p. 438)

エッシェンバッハがとても感動的な演奏をしたときでも、それが必ずしも彼が完全に音楽をコントロールできた故のものではないと感じることがあります。そういったことをうまく書いているなあ、さすがに大家は違うなあととても感じ入ってしまいました。

エッシェンバッハの音楽を聴くときには、この「コントロールできていないゆえの魅力」も楽しむべし、ですね。
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# by ring_taro | 2005-05-20 23:02 | 音楽全般
フィラデルフィア管弦楽団のアジア・ツアーのHPを発見。

いろいろと面白い写真があります。こちらの演奏会で見慣れた団員さんたちが寿司屋のカウンターに並んで座って寿司を食べている絵は、なかなか面白いものがあります。

今後も随時写真はアップされるようですね。

演奏会に行かれる方は、ぜひ感想を聞かせてくださいね。

追記: 団員・スタッフによるブログもあるのですね。
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# by ring_taro | 2005-05-19 07:13 | フィラデルフィア管弦楽団

想像してごらん

フィラデルフィア管弦楽団がアジアに行ってしまいました。

日本の皆様には楽しみな毎日でしょうが、僕には退屈このうえない日々です。
そもそもこのBlogの更新をするにもネタがない。

というわけで、相当古いものですが、興味深かった新聞記事をご紹介します。

“想像してごらん
もしマゼールがここにいて
エッシェンバッハがニューヨークにいることを”

これは今年1月23日、ニューヨーク・フィルがフィラデルフィアで公演をする直前にThe Philadelphia Inquirer紙に書かれたデビット・スターンズ氏による記事のタイトルです("Imagine: Maazel here, Eschenbach in New York")。

彼はマゼールとエッシェンバッハの特徴を、ニューヨークとフィラデルフィアという二つの街の気質とからめて論じています。そうかなあと疑問に思うこともいくつかありましたが、とても面白い記事でした。拙い訳で申し訳ございませんが、下記がその記事の全文です。
(訳に対する苦情、原文に対するお問い合わせ等がありましたら、メールをください。)

******
そんなことを考えるのはいけないことだとわかっていても、フィラデルフィア管弦楽団のサポーターは、(少なくとも時々は)ニューヨーク・フィルハーモニックの定期会員の方がいい思いをしているんじゃないかと気がかりになってしまう。特に今は―フィラデルフィアがクリストフ・エッシェンバッハとの二期目のシーズンでまだ落ち着いていないときに、ロリン・マゼールがニューヨーク・フィルの音楽監督として始めて金曜にキメル・センターにやってくるのだから。

歴史は逆になりえた。エッシェンバッハはニューヨーク・フィルの音楽監督の座をめぐっての最大のライバルだったのだし、もしマゼールが2000年11月のフィルハーモニックへの客演で上手くいかなかったらエッシェンバッハがそのポストについていたかもしれない。そうしたら、オーケストラの作用として容易に想像できることだが、マゼールがフィラデルフィアに来ることになったかもしれない。もしそうなっていたら、彼らはその才能を無駄にしていただろうか?それとも、もっとよい結果になっていただろうか?

こういった疑問の答えを金曜のコンサート(マゼールが特に得意とする作曲家たちのプログラムだ。何しろラヴェルの「ダフニスとクロエ」にスティーヴン・ホフをピアニストに迎えたラフマニノフなのだから)で得ようとするべきではない。一回のコンサートでその人の仕事ぶり完全に描ききることは困難だ。ましてやこの街―オーケストラの音楽監督が街全体の文化的な雰囲気を決定づけてしまうほどのインパクトがある、この街では。ニューヨークでなら、マゼールは大勢いる中の一人にすぎない。[音楽監督が誰であるべきかという]答えは、すべからく「この街が何を必要としているのか」という事に基づいていなければいけない。「何を欲しているのか」ではなくて。

薄っぺらいことを言うならば、シックでコスモポリタンなエッシェンバッハには、ニューヨークのヨーロッパ中心的な音楽社会があっているだろう。彼の舞台の外での穏やかな人柄は、かつての横柄なイメージからはうって変わったナイス・ガイ版ニューヨーク・フィル(最近の客演指揮者は「客演できてよかった」なんて言うのだ)と馴染む。

マゼールはフィラデルフィアの争い好きな気質にぴったりかもしれない。今やこのオーケストラの近年の労使交渉における妥協なき姿勢は、「伝説のフィラデルフィア管」を産業社会のタフ・ガイに変えてしまったのだから。マゼールはウィーン国立歌劇場の地位を騒乱の中で生き残ったし、それに彼ならフィラデルフィア管の頑固な年配奏者たちを引退させることができるかもしれない。(もし必要ならセメントでできた靴を使ってでも。)

しかしコミュニティに対する貢献のことを考えるとどうだろう?社会的人格は?長期的な視座で考えると?どちらの指揮者も人好きのする人間ではしないし、プレスとの良好な関係も築けていない。マゼールが本当に自分のことしか考えない人間なのかどうかは置いておくとして、彼の振る舞いがあまりにそのように受け取られるので、彼は公共の場であまりしゃべらなくなったし、自分がどれだけ傲慢な人間に見られているのか気の許せる友に聞くようになった。

エッシェンバッハはエッシェンバッハで、まったく別の問題を抱えている。演奏前のトークで彼がしゃべっているのを聞くと、まるで寝起きみたいだ。もちろん彼が努力をしているのは認めなければならない。フィラデルフィアの音楽愛好家はこの演奏前のトークが大好きなのだ。それに彼はやればできるのだ。1月10日のマーチン・ルーサー・キングJr記念コンサートでは、彼はピアニストとして登場しただけでなくキング牧師についてのスピーチを確信と雄弁さをもってやってのけた。

どちらの指揮者もあまりの「空気の読めなさ」で人をいらつかせることがある。それはここ最近の数シーズンでより顕著になってきた。エッシェンバッハは彼の旧友であるチモン・バルトをしょっちゅう呼び戻してくる。彼が余りに酷いブラームスのピアノ協奏曲第二番を、奇妙な即興の詩の朗読と不快なバックステージでの立ち振る舞いとの合わせ技でやってのけた後でもだ。マゼールは定期的に彼にとってはじめての楽器であるヴァイオリンを弾きたがる。しかしそれは伝え聞いたところによるとチモン・バルトのピアノを聴く方がましというような恥ずかしいもののようだ。

エッシェンバッハもマゼールも奇妙な(しかし正反対な)演奏面での変化をおこす。エッシェンバッハは必ずしも同一プログラムの最初の日の演奏がベストとは限らない。リハーサルで彼は危険だと思う部分を集中的にさらうので、彼の解釈が初日にしっかりと出来上がっているとは限らないのだ。

マゼールは初日に強烈な演奏をしそんじるということはまず無いが、日が経つにしたがい次第に演奏がフ抜けたものになったり奇妙なものになったりする。まるで彼自身が退屈するのを避けようとしているみたいだ。先週ニューヨークにおいて彼は、モーツァルトの交響曲第29番で気合と趣味のよさをともなう、とても入れ込んだ指揮をした。しかしベートーヴェンの第九のバスーンのソロを、まるではったりか冗談かのようにしてしまった。あるいは「フィデリオ」の演奏会形式での上演のとき、グランド・フィナーレになるまで彼はまったく汗をかこうともしなかった。こういったことが彼をつかみ所がない指揮者にしている。彼は私たちを星の高みにまで引き上げてくれたかと思ったら、いきなり急降下させるような目にもあわせる。

それでも、マゼールの躍動するテンポ、鮮やかなバトン・テクニック、そしてスタンダードなレパートリーを好む姿勢は、前音楽監督のウォルフガング・サヴァリッシュに培われたフィラデルフィアの趣味にぴったり合うかもしれない。ちょっとやそっとの刺激では物足りなくなってしまったニューヨーカーたちは、エッシェンバッハの主観的でテンポ自在な解釈と、よく練られたプログラミング(例えば最近のルチアノ・ベリオの曲とワーグナーのパルシファル第三幕という考え抜かれた組み合わせなど)に夢中になるかもしれない。フィラデルフィアの人々は、マゼールによるエキサイティングだが芸術的には疑問が残る「指輪」の管弦楽組曲版(16時間にも及ぶ「ニーベルンゲンの指輪」伝説のグレーテスト・ヒッツのようなものだ)の方が喜ぶかもしれない。

それでも、私は両指揮者が現在最良の場所にいることを確信している。ワーグナーとはあまり縁が無いフィラデルフィアにおいては、パルシファルから一幕を取り出したもののほうが、本質からはかなり離れて歪められたものよりもよかったと思う。

マゼールが退屈なコンサートをしたとしても、ニューヨーカーにとっては、その週のうちにもうすばらしいオーケストラ・ミュージックを聴く機会がなくなってしまったわけではない。しかしこの街ではどうだろう。フィラデルフィア管弦楽団に変わるものなど無いのだ。それにこの街特有のクエーカーの商人気質もあいまって、退屈な指揮などしたらそれはもう大事なのだ。かつての音楽監督リッカルド・ムーティの最後のシーズンについてこの街の人々が語ることを聴いてみるがいい。確かにエッシェンバッハもそのような感情的な事態に陥ったりする。たいていの場合は彼の論争を呼びがちな遅いテンポによるものだが。

いずれにせよ、金曜にマゼールの指揮のもと聴けるであろう、壮大でよく溶け合った音の競演を楽しもう。しかしそれを束の間の感動なだけにしないで、演奏者とコミュニティとの深い結びつきにしよう。ニューヨーカーにとってわかりきったことの再確認であることが、フィラデルフィアにとってはそれ以上のものになるかもしれない。フィラデルフィアの人々を安寧の地から引きずり出すような演奏会が、この街のコンサート・シーンに予期せぬ知的な活気をもたらすかもしれない。エッシェンバッハが違う色の鳥だということを知ることこそが、フィラデルフィアが彼の巣であることの理由になるかもしれないのだ。
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# by ring_taro | 2005-05-18 23:49 | フィラデルフィア管弦楽団
5月14日のThe Philadelphia Inquirer紙にフィラデルフィア管のチャイコフスキーの演奏会評が載っていました。

アジア・ツアーにそなえてこのプログラムでは、前主席ホルン奏者のノラン・ミラーをはじめ八人の引退する団員のほとんどがのっていなかったのですが、そのことをうけて「サヴァリッシュの時代は完全に過去のものとなってしまった」と寂しそうです。しかしこれは新たな時代の始まりであり、副主席のジェフリー・ラングによる交響曲の二楽章のホルン・ソロはそのことを強く予感させるものであったと書いています。

エッシェンバッハの解釈については「満足のいく要素に満ちている(full of gratifying elements)」とおおむね評価しています。特に二楽章冒頭は「音楽表現のあり方としての希有の例(a startling instance of timbre as an expressive entity)」と褒めちぎっています。この二楽章の冒頭、要チェックですね。

ラン・ランのピアノについては、オーケストラとの協調性を高く評価しています。これまでのパフォーマンスに比べてのこの向上の要因は、「解釈よりも[オーケストラあるいは指揮者への]服従(more about submission than interpretation)」によるものかもしれないとしながらも、「これこそ演奏者が志向せねばならない音楽のあり方である(this is music that performers must seize)」と書いています。

へー、昔のラン・ランは今回の演奏会以上に奔放なスタイルだったんだ。どんなものだったのでしょうね。
でも僕には現在のラン・ランも十分に鮮烈です。
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# by ring_taro | 2005-05-18 00:44 | フィラデルフィア管弦楽団
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (May 12, 13, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

チャイコフスキー: ピアノ協奏曲第一番
チャイコフスキー: 交響曲第五番

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ラン・ラン: ピアノ

フィラデルフィア管弦楽団の今シーズン最後の定期演奏会はオール・チャイコフスキー・プログラム。最後ということで、ついつい二日連続で聴きに行ってしまいました。

この演奏会では弦のシフトが再び"1st Vn, Vc, Va, 2nd Vn"の順番に戻りました。アジア・ツアーはこの配置でいくのでしょう。

ラン・ランはこちらではとても人気のあるピアニストです。そのピアノはまさに自由奔放。今回のチャイコフスキーでも、時折みせるものすごい加速はまるで音の洪水。そしてどこまでも明るい音楽です。

「天真爛漫」と表現するのがいいかもしれません。時々ものすごい勢いでオーケストラにつっかかるんですが、それも「挑戦的」というのではなく、みんなにかまってほしくて敢えて悪戯をする無邪気な子供のよう。エッシェンバッハ指揮のフィラデルフィア管は(時々エッシェンバッハらしい手癖を仕込みますが)さすがに大人の対応で、音楽を自然に落ち着かせますが、そのやりとりがまた楽しい。

休憩後の五番はとても充実した演奏でした。数ヶ月前のこのコンビによる悲愴に比べると、もう少し金管が前面に出ています。

とにかく音楽が一ヶ所にとどまらず、常に動いている感じです。エッシェンバッハ得意の急ブレーキ(プラス時々ものすごいゲネラル・パウゼ)と加速とフレーズの過剰な表情付けでまさにキリモミ状。一楽章の一番最後の部分でエッシェンバッハはものすごい「ため」をしたのですが、一日目の演奏会ではオーケストラが反応しきれなく、破綻寸前になってしまいました。二日目ではさすがにしっかりと対応して、堂々としたクライマックスをかたちづくっていましたが。

二楽章の美しさといったら。。。しかしただ美しいだけでなく、エッシェンバッハのシリアスなアプローチのため、すごく厳しい音楽にもなっています。この楽章冒頭の緊張感はものすごかったです。まるでベートーヴェンの弦楽四重奏曲Op. 132の三楽章モルト・アダージョのよう。そこにホルンがオーボエが加わり、音楽が色づいていく様がとても感動的でした。しかし一楽章冒頭で呈示された「運命の主題(the Fate motto)」がかえってくると、金管のものすごい咆哮でそんな甘美な夢から醒まされます。この運命の主題の後、この楽章の最初にホルンが吹いた旋律をヴァイオリンが弾く個所、オーボエのウッドハムズのオブリガートがそれはもう絶品。ここ必聴。

終楽章はとてもドラマチックなアプローチ。ものすごい苦闘のぶんだけ、コーダが感動的になります。ここですさまじいアッチェレランドがあるのですが、オーケストラも一糸乱れず突進します。

1シーズン通してエッシェンバッハ指揮のフィラデルフィア管を聴いてきたのですが(今数えたら、このコンビの演奏会に12回行ってました)、次第に彼の音楽に惹かれている自分がいました。思うのですが、彼は音楽を無条件で「信じて」いるのではないでしょうか。今回のチャイコフスキーでいえば、運命との戦いから勝利へという「物語」と信じているのです。この21世紀にメタとも脱構築とも無縁な解釈といえばいいでしょうか。

そのエッシェンバッハの真摯な姿勢に胸をうたれるのです。
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# by ring_taro | 2005-05-15 20:25 | クラシックの演奏会
シカゴ交響楽団演奏会 (May 7, 05)
シンフォニー・センター、セオドア・トーマス・オーケストラ・ホール

シュニトケ: 合奏協奏曲第六番、第五番
ベートーヴェン: 交響曲第七番

ダニエル・バレンボイム:指揮、ピアノ
ギドン・クレーメル: ヴァイオリン


シカゴ交響楽団演奏会 (May 11, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

ワーグナー: 「パルジファル」前奏曲
シェーンベルク: 管弦楽のための五つの小品 (1909年版)
ベートーヴェン: 交響曲第七番

シカゴからフィラデルフィアへ。はからずもシカゴ交響楽団を追っかけてしまいました。

現地でシカゴ交響楽団を聴いたのは実に10年ぶり。そのときはリッカルド・シャイー指揮でド迫力のヤナーチェクのシンフォニエッタと、不思議な響きのブラームスの交響曲第一番を聴きました。あのブラームスはいまだに謎。あんなに明るくて軽いブラームスは聴いたことがありません。

全然知らなかったのですが、その後オーケストラ・ホールって改修工事がなされたのですね。昔からデットな音響で有名だったようですが。
あれ、舞台後方に座席って昔からあったっけ?新しく取り付けたのかな。

シュニトケの二つのコンチェルト・グロッソは、どちらも1990年代になってから作曲されたもの。特に第六番はシンプルな編成(ピアノ、ソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏)と書法の面白い曲です。

バレンボイムのピアノがすばらしい。硬質な音色でズンズン、ザックザックと弾きたおします。ものすごい力強さにもかかわらず、その音の美しいこと!一音一音がクリスタルのようです。イメージとしてはマンフレッド・アイヒャーがプロデュースしたECMのソロ・ピアノみたい。その音があのでっかいシカゴのオーケストラ・ホールを満たしているのです。ここまで圧倒的なピアノを弾く人だったとは。クレーメルの空間を切り裂くような鋭いヴァイオリンも印象的でした。この二人、実に音があっています。

そしてオーケストラのうまいこと。もう、本当にうまい。
驚くべきはその反応の速さ。アクセルを踏んだとたんに最高速度になるスポーツカーのよう。どれだけ強奏してもまだ余裕があるように感じられます。なんの無理も力みも感じさせないのです。そして「ほつれ」や「濁り」とは無縁のサウンド。ホールのせいもあるかもしれませんが、実にクリアな音です。

これはすごい。シカゴの人は日常からこんなオーケストラを聴いているのか。他のオケなんて、ねむたくて聴けなくなっちゃわないかなー。なるだろうなー。
でもそれは幸せなことなのか、不幸なことなのか。

フィラデルフィア公演でのワーグナーとシェーンベルクは、そういったシカゴ響の特徴がよりいっそうでた演目でした。やはりキメル・センターの方がシカゴのオーケストラ・ホールよりまろやかな響きになるのですが、それでもフィラデルフィア管がそれぞれの楽器の音を練りあわせて一つの音をつくっていく感じに比べると、シカゴ響の音の明晰さは際立ちます。ワーグナーの金管のものすごさといったら。。。なんですか、あれ。どうやったらあんなふうに吹けるんですか?

首席ホルンのクレヴェンジャーはやっぱりすごいですよ。うまいだけでなく、どんな局面でも余力を残している様がたまりませんよ。アメリカが誇るもう一人の名手、ニューヨーク・フィルのフィリップ・マイヤーズは「どーだ、オレのホルンすごいだろー」というオーラを強烈に発散させて吹いている感じですが、クレヴェンジャーのホルンはどんなに難しいフレーズでも楽々と涼しい顔で吹いているところがまた違った凄みを感じさせます。

休憩後はベートーヴェン。
しかしまあ、粘るし揺らぐし煽るし、なかなか濃ゆいベートーヴェンですねえ。常にテンポが速くなったり遅くなったり、ザッツはわざとぼかしてみたり。バレンボイムの志向するベートーヴェンはおそらく相当「ねっとり」したものなのでしょうが、オーケストラのサウンドが実にクリアなので、少しもうっとうしくなりません。そう考えると、このコンビはすごくいい組み合わせだったのでしょうね。(バレンボイムが音楽監督なのは来シーズンまでだけど。)

しつこいようですが、オーケストラがうまい。音の増減をまるでステレオのボリュームをまわすようにやってのけます。て言うと、けなしているように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。純粋に感心しているのです。二楽章の長いクレシェンドとデクレッシェンドで大きなヤマをつくっていく様は見事の一言です。


ところでバレンボイムとエッシェンバッハ。指揮者としての二人の音楽って結構似ているようで、実はまったく違うもののように聴こえます。何が違うんだろう?今度ゆっくり考えてみよう。
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# by ring_taro | 2005-05-15 05:17 | クラシックの演奏会
フィラデルフィア管弦楽団演奏会 (May 10, 05)
キメル・センター、ボライゾン・ホール

マルチヌー: リディツェ追悼
クライン: 弦楽のためのパルティータ (ザウデク編)
ショスタコーヴィチ: ヴァイオリン協奏曲第一番
バルトーク: 管弦楽のための協奏曲

クリストフ・エッシェンバッハ: 指揮
ヴァディム・レーピン: ヴァイオリン

エッシェンバッハにとって第二次世界大戦というのは、相当に重要なものであるようです。彼がこの戦争をどのように体験したかは、彼のHPをご参照ください。昨年のシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」とブラームスのドイツ・レクイエムをぶっ続けでやった演奏会もすごかったけれど、この日のプログラムもすごかった。

ナチスにより焼き払われたチェコの村リディツェへのマルチヌーが書いた追悼曲、テレジン収容所で25歳で死んだクラインがその収容所の中で書いたパルティータ、ショスタコーヴィチが1947-48年に作曲ししばらく初演されなかった沈鬱なヴァイオリン協奏曲を経て、最後はバルトークがアメリカ亡命後1943年に作曲した管弦楽のためのコンチェルトというプログラム。ああ、重い、重すぎる。

ヴァイオリン協奏曲第一番はショスタコーヴィチの曲のなかでもおそらく最も暗いものの一つです。レーピンのヴァイオリンはやや線が細いのですが、ものすごい推進力でグイグイ音楽を引っ張っていきます。三楽章後半のカデンツァも息をのむほどの出来。エッシェンバッハ指揮のオーケストラも内容の濃いものでした。ここまで完璧なこの曲の演奏にはそうそうお目にかかれないのではないでしょうか。

休憩後はバルトーク。
セルやショルティの引き締まった演奏になれた耳で聴くと、その豊かな響きがまず印象に残ります。テンポも揺れる揺れる。エッシェンバッハのアプローチはとにかくシリアスなもの。この曲の一つの側面である諧謔味はどこかへ行ってしまいました。どこまでも深刻な音楽です。各奏者の名人芸ですこし救われる感じ。

特にクライマックスのショッキングなこと。。。
それまでみんなで楽しくワイワイやっていたら、突然に地面が割れてこの世の深淵が全てのものを飲み込んでしまったような衝撃です。あとに残された者は呆然と立ちすくむしかない。

ところでこの曲の四楽章でショスタコーヴィチの交響曲第七番の一楽章の有名な旋律が引用されているのですが、休憩前のショスタコーヴィチ自身のヴァイオリン協奏曲でもこのフレーズがちょこちょこっと顔を出します。ああ、こんなところでも繋がっているんだ。エッシェンバッハのプログラミングには感心しっぱなしです。


演奏会前にアナウンスがあったのですが、今回の演奏会からCDとしてリリースするためのライブ・レコーディングが始まりました。ものすごいマイクの数です。咳とかあんましないでねとお願いがあったのですが、まあ、皆さんゴホゴホするしモノは落とすし普段どおりでしたね。
バルトークの前にはエッシェンバッハ氏自らマイクを持って、「曲が終わった直後も音楽の一部です」とお願いしたのに、皆さんかまわず曲終わりとかぶせて拍手喝さいしているし。(まあ、こういうことをお願いするということも、ちょっと奇妙な感じはするのですが。)

この録音、使えるのかなあ。


ああ、それにしても重いプログラムだった。
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# by ring_taro | 2005-05-14 22:44 | クラシックの演奏会

遊園地がやってきた

ある日、普段通っている道沿いの原っぱに、突然遊園地ができてました。
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地元の消防署のファンド・レイジング活動の一環のようです。移動遊園地を見たのは初めてだったので、ちょっと興奮してしまいました。


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こういうの、なんていうんでしたっけ?フリーフォール?
いずれにせよ、普通の遊園地にあるやつより危険そうな凄みがあります。

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メリーゴーランドのなかに一匹パンダ発見。なぜパンダ?
ていうか怖いんだよ、お前。

ところでこの遊園地があった週末はずっと雨。(この日も終日閉園。)
ほとんど使われること無く、遊園地は去っていきました。

気の毒すぎる。。。



すいません、次は音楽のこと書きます。
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# by ring_taro | 2005-05-13 23:52 | アメリカを歩く